ブラジルの没落と再興
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「南アメリカの建艦競争」の記事における「ブラジルの没落と再興」の解説
「ブラジル第一共和国(英語版)」も参照 ブラジルの主な軍艦(1880年 - 1906年)年 船(種類) 年 船(種類) 1881年 リアシュエロ(BB) 1892年 ベンジャミン・コンスタント(Benjamin Constant,PC)レプブリカ(República,PC) 1883年 アキダバン(BB) 1896年 アウミランテ・バロッソ(Almirante Barroso,PC) 1890年 アウミランテ・タマンダレ(英語版)(PC) 1898年 デオドロ(Deodoro,BB)フロリアーノ(Floriano,BB) 記号解: ブラジル帝国 ブラジル共和国BB: 装甲艦か海防戦艦 – PC: 防護巡洋艦 日付は進水式の日付。 出典: Scheina, "Brazil," in Gardiner and Gray, Conway's 1906–21, pp. 403–404. 1889年のクーデター(英語版)でブラジルの帝政が打倒され、さらに1891年と1893年から1894年の2度の海軍反乱(英語版)、1893年から1895年までの共和派革命(英語版)、1896年から1897年までのカヌドス戦争(英語版)など戦乱が重なったため、ブラジル海軍は顧みられないまま艦船が旧式化した。1896年時点のブラジル海軍は許可された兵員数の45%しか有しておらず、海軍の技術が発展する中、ブラジル海軍の近代装甲艦は1898年進水の海防戦艦2隻だけだった。このように荒廃した状態の守備について、ブラジル外務大臣(英語版)のリオ・ブランコ男爵(英語版)は「このような状況で、あなたは[...]私がどれだけ心配しているか、私の憂慮がわかるだろう。まだ(ブラジルを)守っているものはこの地に将来が残っていた(帝政)時期より残っている道徳の力と古い栄光である」と述べた。 一方、アルゼンチン=チリ間の協定は海軍の軍拡を制限したが、建艦競争中に建造された艦船は残された。そのため、20世紀が始まる頃にはブラジル海軍がアルゼンチン海軍とチリ海軍に質でも総トン数でも水をあけられた。ブラジルがアルゼンチンの3倍、チリの5倍近くの人口を擁していることもあって、ブラジル政府はブラジル海軍が指導的役割を果たすべきと考えた。 19世紀末期と20世紀初期のコーヒーとゴムに対する需要は、ブラジルのコーヒー生産とゴム景気(英語版)につながった。この時期、ブラジルは世界のコーヒー供給の8割を占め、特にサンパウロ州、ミナスジェライス州、リオデジャネイロ州の産量が多かった。この景気によりブラジル政府の歳入がそれまでよりもはるかに高かった。同時期の政治家、特にジョゼ・ゴメス・ピニェイロ・マシャド(英語版)とリオ・ブランコ男爵はブラジルを大国として諸国に認めさせたかったため、強力な海軍は不可欠だった。 1904年12月14日、ブラジル国民会議は大規模な海軍軍拡計画を議決した。しかし、1906年までは軍艦の注文も購入もなされないため、リオ・ブランコ男爵は中継ぎとして中古軍艦の購入を提案したが、受け入れられなかった。1906年までに購入すべき船の種類をめぐって二派に分けられた。一派はイギリスのアームストロング・ホイットワース社(後にブラジルからの注文を受けた)の支持を受け、少数の大型艦で艦隊を編成すべきと主張、もう一派はリオ・ブランコ男爵の支持を受けており、多数のより小型な艦船で艦隊を編成すべきと主張した。リオ・ブランコ男爵は支持の理由として、「小型戦艦6隻があったほうがずっといい。戦闘で1、2隻失ってもまだ4、5隻残って戦える。しかし3隻(の大型戦艦)は?2隻が損傷か破壊されたら、もう1隻しか残らない」ことを挙げた。 最初は小型艦派が上手であり、1905年12月30日に第1452号法が議決された。この法案では軍艦建設に4,214,550ポンドの予算を与え(うち1,685,820ポンドは1906年に使用)、小型戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、駆逐艦6隻、水雷艇12隻、潜水艦3隻、石炭船1隻、航海練習船1隻を注文した。ブラジル政府は後に財政問題で装甲巡洋艦の注文をキャンセルしたが、海軍大臣のジュリオ・セザール・デ・ノローニャ(英語版)提督は1906年7月23日にアームストロング・ホイットワース社と注文の契約を締結した。 イギリスの会社が注文を受けたにもかかわらず、巨大の支出を要し、アルゼンチンとブラジルの関係(英語版)に悪影響を与えたため、イギリス駐ブラジル大使(英語版)ウィリアム・H・D・ハガード(William H. D. Haggard)はブラジルの海軍拡張計画に反対した。彼はそれを「虚栄心の体現と個人の金銭上の動機が合わさった結果」とみなした。アメリカ駐ブラジル大使(英語版)ロイド・カーペンター・グリスコム(英語版)は1906年9月に米国国務省に電報を送り、状況が大規模な建艦競争に発展した場合、情勢の不安定化の恐れがあると警告した。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは外交による解決を目指し、ブラジルに計画の中止を求めたが拒否された。リオ・ブランコ男爵は米国の要求をのんだ場合、ブラジルは1901年憲法(英語版)で米国による内政干渉を許したキューバのような無力な国になると警告した。1906年11月にブラジル大統領に就任したアフォンソ・ペナ(英語版)は国民会議への演説で海軍の軍拡を支持した。彼は1月に事故で爆発したアキダバン、および現海軍を構成する旧式艦の代替となる軍艦を購入する必要性を鑑みて支持したのであった。
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