ブラジルの起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:39 UTC 版)
詳細は「w:Colonial Brazil」を参照 今日ブラジルと呼ばれる土地は、1500年3月、ポルトガルの艦隊司令官ペドロ・アルヴァレス・カブラルの来航によって発見された。ポルトガル人は複数の部族に別れた先住民に遭遇した。先住民の多くはトゥピ=グアラニー(Tupi-Guaraní)語族であり、彼らは土地を争ったり共有したりしていた。 1532年に最初の植民地が建設されたが、植民地化は1534年に本格的に始まった。このときジョアン3世は、領域を12の世襲のカピタニアに分割した。しかしこの対策は問題があり、1549年には王は植民地全域の総督支配を認めた。ポルトガルは先住民をいくらかを同化させたが、ほかの先住民は緩やかに長期の戦争とヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病によって死滅していった。 16世紀半ばまでに、国際的な需要の増大により、砂糖がブラジルの主要な輸出品となった。この状況に対応するために、1700年までに96万3千人以上の黒人奴隷がブラジルで使役させるために大西洋を渡った。ブラジルに送られた奴隷の数はアメリカ大陸のどの地域よりも多かった。 フランスとの戦争を通じて、ポルトガルはゆっくりと南東に領域を広げ、1567年にリオデジャネイロを獲得し、北西に広げると1615年にサンパウロを得た。ポルトガルはアマゾンに遠征軍を派遣し、イギリスとオランダの植民地を征服し、1699年に村落と要塞を建設した。1680年代にポルトガルは南端に達し、ラプラタ川沿岸にサクラメント植民地を建設した(現ウルグアイ)。 17世紀の終わりには、砂糖の輸出は減少し始め、1690年代にはミナスジェライス(現在のマットグロッソ州、ゴイアス州およびミナスジェライス州)と呼ばれることになる地域で探検家によって金が発見され、植民地は没落から救われた。ブラジル全域はもとより、ポルトガルからも多数の移民が押し寄せた。 スペインはトリデシリャス条約によってスペインに帰属する地域への進出を阻もうとし、1777年にラプラタ川東岸の征服に成功した。しかしこれは、同年に調印された第一次サン・イルデフォンソ条約の結果であり、ポルトガルがそれまでに拡大してきた植民地の領域を確認するものであった。こうしてブラジルの領域が確定した。
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