ブラジルの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/01 14:21 UTC 版)
1889年の共和制革命により、ブラジルは帝政から共和制に移行した。共和制で実権を握ったのは、ブラジル経済を牽引していた大農園主たちであった。コーヒー生産の中心であったサンパウロ州と、畜産・酪農の生産地であったミナスジェライス州から交互に連邦の大統領を送り込んだ(カフェ・コン・レイテ体制)。このような状況から連邦政府は、各州の内政にあまり干渉せず、各州の利益の調整の場に近いものであった。 パラー州の州都、ベレンは、17世紀に建設された大西洋に面する港町であった。ベレンは、砂糖、綿花、コーヒーと主要な貿易品を変えながら、ブラジルで最も栄えた港の一つとなっていた。他方、アマゾナス州のマナウスは、大西洋から内陸に1500km、アマゾン川本流とネグロ川の合流地点の北に位置する。アマゾン川を利用した物流での物資の集積地として、19世紀中頃に建設された。 1876年、イギリスのインマン汽船会社は、マナウスとイギリスのリバプールの間に直接航路を開設した。1880年、ベレンは7,793トンの天然ゴムを輸出したが、マナウスは374トンを送り出しただけであった。これはベレンには古くからの港湾都市で、銀行、保険会社、法律事務所などを備えていたからでもあった。アマゾナス州の有力者たちは、アマゾンでのゴム貿易の優位性をベレンから奪うことを画策した。1878年、マナウスから直接国外に天然ゴムを輸出する場合は、低い税率を適用することを定めた。
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ブラジルの状況
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ペトロポリス条約によってブラジルとボリビアの間で和解をみた。しかし内政面では、ブラジル国内でのアクレ地方の扱いに関してパラー州とアマゾナス州の対立は残ったままだった。アマゾナス州の有力者たちはアクレ地方をアマゾナス州に併合することを求めた。対するパラー州は、アクレ地方を独立した州として連邦政府下に置くことを求めた。このため、アクレ地方からゴムを搬出する際、パラー州のゴム商人は、アマゾナス州の管理するマナウスの港湾当局から嫌がらせを受けた。 アクレ地方の入植者たちも、連邦下での自治を望んだ。またブラジル連邦政府は、ボリビアに支払う賠償金と鉄道建設費用の負担が問題であった。この財源としてアクレ地方のゴム輸出からの税収を目当てにしており、ブラジル連邦政府はパラー州の主張に最終的に同意した。結局、アクレ地方は、連邦下に置かれ、1904年2月25日、アクレ準州となった。 アクレ地方がブラジルに併合されたことは、地理的に離れたベレンに大きな恩恵を与えた。ベレンからブラジル国外に輸出された天然ゴムは、1902年に約10,000トンであったが、1905年には約15,000トンと大幅に増加した。この増加分は、アクレから搬出される天然ゴムがベレンを経由したものであった。アクレ併合後、マナウスも発展を遂げたが、ベレンはアマゾン流域での商業の優位性を譲ることはなかった。 外交面では、ブラジル外務大臣のリオ・ブランコ男爵は、エクアドル、ペルーとの国境線についても軍事力を背景にブラジルの主張する国境線で確定させていった。1909年、ペルーとの間に条約を結び、ジャバリ川の源流からアマゾン川の合流点までを国境線として確定した。
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