ブラジルへの宮廷の移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 22:56 UTC 版)
「マリア1世 (ポルトガル女王)」の記事における「ブラジルへの宮廷の移転」の解説
1806年、ナポレオンの大陸封鎖令が発令されるが、ポルトガルはこれに従わなかった。ナポレオンはスペインと密約を結び、ポルトガルを3分割して、1つを宰相ゴドイの王国とすることに同意した。1807年11月、ジュノー将軍の軍勢がポルトガルに侵入する。摂政ジョアンはイギリス国王ジョージ3世と密約を結んでいたため、王家の乗ったポルトガル艦隊はイギリス艦隊に護られてブラジルへ避難した。多数の貴族や裕福な商人たちも加わり、合計1万人が王室とともに脱出した。 1816年、マリア1世はリオ・デ・ジャネイロで死去し、市内のサン・フランシスコ・デ・パウラ教会に埋葬された。ポルトガル王家の本国帰還後、棺が移送され、現在は自らが建てたエストレラ大聖堂に埋葬されている。
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