フィリピン対日武装勢力
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「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「フィリピン対日武装勢力」の解説
詳細は「日本占領時期のフィリピン」を参照 フィリピン占領初期のバターン死の行進に加えて、日本軍による軍政の失敗もあって、対日感情は悪化する一方であった。フィリピン奪還を目指していたマッカーサーは、この日本軍に対するフィリピン人の反感を巧みに利用し、大量の武器を与えてゲリラとして組織化した。マッカーサーは潜水艦で大量の武器を送り込むと、捕虜収容所から脱走したアメリカ兵にフィリピンゲリラを支援させた。 フィリピンの対日武装勢力は二つに大別できる組織からなり、ともに大きな団体となっていた。ひとつは、かつてマッカーサー大将の指揮下で活動していた米比軍の将兵ら(通称をアメリカ極東陸軍の頭字語USAFFEからユサッフェ・ゲリラという)で、原隊よりは比較的自由な活動をしていた。他方は、フクバラハプと呼ばれるフィリピン国内の農民革命運動や労働運動者たちであった。この2組織は必ずしも協力関係にあったわけではなく、あるときフクバラハプ側がユサッフェに対して同盟を組もうと迫ったが、逆にユサッフェはこれを拒絶してフクバラハプに攻撃を仕掛けたりもしていた。ユサッフェは、米比軍の正式区分だった全10管区を引き継ぐ形で軍管区司令部を設置し、総兵力約22000名によるゲリラ戦を展開した。もっともユサッフェ・フクバラハプの2集団とは別に中小のゲリラ集団が各地に点在しており1943年に大本営陸軍部がまとめた「最近ニ於ける比島事情」には100以上の組織と27万人のゲリラが報告されている。 なかでも、アメリカに支援されていたユサッフェは、重火器はないものの自動小銃や短機関銃を大量に供給され、火器装備は90 %を超えており、支配者である日本軍より火力に優れているといった有様になっていた。これらゲリラの活動により、1943年の時点で連日のように道路・橋や電話線の破壊、移動中の部隊への襲撃が相次ぎ「昼間は歩けない」とさえ言われた。アメリカ軍がレイテ島に上陸する前には30万人以上の武装ゲリラが存在して日本軍と戦闘を開始しており、日本軍が掌握できていたのはフィリピンのわずか30 %に過ぎなかった。ゲリラといっても、アメリカ軍の指揮・命令を受けていたユサッフェはフィリピン人のアメリカ陸軍正規兵であるフィリピン・スカウト(英語版)と同じ扱いであって、アメリカ本国から階級の昇進や任免まで行われていた。マッカーサーは正規軍であるユサッフェを通常の軍事作戦に投入し、アメリカ軍が日本軍前線に進攻すると陣地後方から攻撃させ、空挺部隊が降下してくるときには事前に降下地の日本軍を掃討させていた。 ただし、正規兵扱いと言っても全員が軍服を着用しているのではなく、むしろ一般市民に溶け込むような活動を行い、またゲリラの支援者は、アメリカ正規軍扱いではないフクバラハップゲリラを含めると、国民の大多数にあたる1,700万人にも達していたという推計もあって、日本軍にゲリラとその支援者と一般市民を見分ける手段はなく、ゲリラ討伐として、実際のゲリラの他に無辜の一般市民も大量に虐殺した。日本軍兵士は多くの戦友や一般の邦人をゲリラに殺害されており、その報復としてゲリラ討伐が激しくなっていったという指摘もある。特にマニラの戦いではアメリカ軍とゲリラに追い詰められた日本軍が見境なく多くのマニラ市民を虐殺することとなった。マッカーサーは日本軍のゲリラ討伐を「強力で無慈悲な戦力が野蛮な手段に訴えた」などと激しく非難したが、その無武装で弱き者を武装させてけしかけたのはマッカーサーであり、また日本軍と戦ったゲリラの多くが実際にはアメリカ正規軍のようなものであった。日本軍はアメリカ軍に加えて、数十万にも膨れ上がったフィリピンゲリラとも戦い、山中に孤立すると、民間人共々にゲリラに虐殺された。 戦後にフィリピンでの虐殺の罪を問われて戦犯となった第14方面軍司令官山下の裁判では、山下の弁護側から、マッカーサーの父アーサー・マッカーサー・ジュニアがフィリピンのアメリカ軍の司令官として、米比戦争などフィリピンの独立運動を弾圧した時の例を出され「血なまぐさい『フィリピンの反乱』の期間、フィリピンを鎮圧するために、アメリカ人が考案し用いられた方法を、日本軍は模倣したようなものである」「アメリカ軍の討伐隊の指揮官スミス准将は「小銃を持てる者は全て殺せ」という命令を出した」と指摘されている。しかし、マッカーサーは初めから山下に全責任を押し付けようと考えており、マッカーサーの息のかかった法曹経験が全くない職業軍人を裁判官とした典型的なカンガルー法廷(似非裁判:法律を無視して行われる私的裁判)で山下を死刑に処した。 一方、フィリピン市民は必ずしもすべてが対日武装勢力に与したというわけではなく、日本が1943年10月14日に独立政府(ホセ・ラウレル政権・フィリピン第二共和政)を設立するなどフィリピン宣撫工作により親日派の市民たちも存在した。また日本軍はマカピリと呼ばれる武装組織(約5600名)を作り、抗日ゲリラを討伐したり、中には日本軍とともに敵陣に突入していく部隊もあった。もっともラウレル政権は独立と同時に対米宣戦布告を求めた日本側に対してフィリピンの国情を理由に先延ばしを認めさせるといったことがあった。なお、これらの親日派武装勢力は戦後に特赦され、軍事裁判に問われないものとされた(もっともいわゆる私刑の類はあった)。
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