フィリピン対日武装勢力とは? わかりやすく解説

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フィリピン対日武装勢力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:57 UTC 版)

フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「フィリピン対日武装勢力」の解説

詳細は「日本占領時期のフィリピン」を参照 フィリピン占領初期バターン死の行進加えて日本軍による軍政失敗もあって、対日感情悪化する一方であった。フィリピン奪還目指していたマッカーサーは、この日本軍対すフィリピン人反感巧みに利用し大量武器与えてゲリラとして組織化したマッカーサー潜水艦大量武器送り込むと、捕虜収容所から脱走したアメリカ兵フィリピンゲリラ支援させた。 フィリピン対日武装勢力二つ大別できる組織からなり、ともに大きな団体となっていた。ひとつは、かつてマッカーサー大将指揮下で活動していた米比軍将兵ら(通称アメリカ極東陸軍頭字語USAFFEからユサッフェ・ゲリラという)で、原隊よりは比較自由な活動をしていた。他方は、フクバラハプ呼ばれるフィリピン国内農民革命運動労働運動者たちであった。この2組織は必ずしも協力関係にあったわけではなく、あるときフクバラハプ側がユサッフェに対して同盟組もう迫ったが、逆にユサッフェはこれを拒絶してフクバラハプ攻撃仕掛けたりもしていた。ユサッフェは、米比軍の正式区分だった全10管区引き継ぐ形で軍管区司令部設置し、総兵力約22000名によるゲリラ戦展開した。もっともユサッフェ・フクバラハプの2集団とは別に中小ゲリラ集団各地点在しており1943年大本営陸軍部がまとめた「最近於ける比島事情」には100上の組織27万人ゲリラ報告されている。 なかでもアメリカ支援されていたユサッフェは、重火器はないものの自動小銃短機関銃大量に供給され火器装備90 %を超えており、支配者ある日本軍より火力優れているといった有様になっていた。これらゲリラ活動により、1943年時点連日のように道路・橋電話線破壊移動中の部隊への襲撃が相次ぎ昼間歩けない」とさえ言われた。アメリカ軍レイテ島上陸する前に30万人上の武装ゲリラ存在して日本軍戦闘開始しており、日本軍掌握できていたのはフィリピンのわずか30 %に過ぎなかった。ゲリラといっても、アメリカ軍指揮・命令受けていたユサッフェフィリピン人アメリカ陸軍正規兵であるフィリピン・スカウト(英語版)と同じ扱いであってアメリカ本国から階級昇進任免まで行われていた。マッカーサー正規軍であるユサッフェ通常の軍事作戦投入しアメリカ軍日本軍前線進攻する陣地後方から攻撃させ、空挺部隊降下してくるときには事前に降下地の日本軍掃討させていた。 ただし、正規扱いと言っても全員軍服着用しているのではなく、むしろ一般市民溶け込むような活動行い、またゲリラ支援者は、アメリカ正規軍扱いではないフクバラハップゲリラを含めると、国民大多数にあたる1,700万人にも達していたという推計もあって、日本軍ゲリラとその支援者一般市民見分ける手段はなく、ゲリラ討伐として、実際ゲリラの他に無辜一般市民大量に虐殺した日本軍兵士多く戦友や一般の邦人ゲリラ殺害されており、その報復としてゲリラ討伐激しくなっていったという指摘もある。特にマニラの戦いではアメリカ軍ゲリラ追い詰められ日本軍見境なく多くマニラ市民虐殺することとなったマッカーサー日本軍ゲリラ討伐を「強力で無慈悲な戦力野蛮な手段訴えた」などと激しく非難したが、その無武装弱き者武装させてけしかけたのはマッカーサーであり、また日本軍戦ったゲリラ多く実際にアメリカ正規軍のようなものであった日本軍アメリカ軍加えて数十にも膨れ上がったフィリピンゲリラとも戦い山中孤立すると、民間人共々ゲリラ虐殺された。 戦後フィリピンでの虐殺の罪を問われ戦犯となった第14方面軍司令官山下裁判では、山下弁護側からマッカーサーの父アーサー・マッカーサー・ジュニアフィリピンアメリカ軍司令官として米比戦争などフィリピン独立運動弾圧した時の例を出され血なまぐさいフィリピンの反乱』の期間、フィリピン鎮圧するために、アメリカ人考案し用いられ方法を、日本軍模倣したようなものである」「アメリカ軍討伐隊指揮官スミス准将は「小銃持てる者は全て殺せ」という命令出した」と指摘されている。しかし、マッカーサー初めから山下に全責任押し付けようと考えており、マッカーサーの息のかかった法曹経験全くない職業軍人裁判官とした典型的なカンガルー法廷似非裁判法律無視して行われる私的裁判)で山下死刑処した一方フィリピン市民は必ずしもすべてが対日武装勢力与したというわけではなく、日本1943年10月14日独立政府ホセ・ラウレル政権フィリピン第二共和政)を設立するなどフィリピン宣撫工作により親日派市民たちも存在した。また日本軍マカピリ呼ばれる武装組織(約5600名)を作り抗日ゲリラ討伐したり、中には日本軍とともに敵陣突入していく部隊もあった。もっともラウレル政権独立同時に対米宣戦布告求めた日本に対してフィリピン国情理由先延ばし認めさせるといったことがあった。なお、これらの親日派武装勢力戦後特赦され、軍事裁判問われないものとされた(もっともいわゆる私刑の類はあった)。

※この「フィリピン対日武装勢力」の解説は、「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の解説の一部です。
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