ピーリッジとは? わかりやすく解説

ピーリッジ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 04:14 UTC 版)

アール・ヴァン・ドーン」の記事における「ピーリッジ」の解説

詳細は「ピーリッジの戦い」を参照 1861年暮れ1862年年明けまでに、ミズーリ州北軍州内から南軍全てをほとんど追い出すまでになっていた。ヴァン・ドーンがこの方面軍の指揮を執った時、そのおよそ17,000名の兵士60門の大砲からなる西部軍で既に進行中事態対処しなければならなかった。北軍攻撃して打ち破りミズーリ州入ってセントルイス占領し南軍にとって重要なこの州の支配取り戻すことを望んだ3月3日ボストン山脈近く集結した軍隊合流し翌日には北への進軍開始した1862年春、北軍サミュエル・R・カーティス准将アーカンソー州入って、その10.500名の南西軍で南軍追跡したカーティスその4師団50門の大砲集めて、シュガー・クリークと呼ばれる小川沿ったアーカンソー州ベントン郡移動した。その小川北岸優れた防御陣地見付け、南からの攻撃想定してその要塞化始めた。ヴァン・ドーンは向かい合うカーティス塹壕施した陣地攻撃しないことにした。その代わり自軍プライスマカロック率いられる1個師団ずつの2つ分けカーティス軍の後方で再集合することを期待してそれぞれ北へ進軍させる命令出した。ヴァン・ドーンは2隊の移動速度上げさせるために物資荷車置いていかせる決断をしたが、この決断が後に重要になることが分かった南軍には強行軍適当な装備不足していたこと(ある者は靴すら無かったと言う)、倒木が道を遮っていたこと、兵士疲れ飢えていたこと、およびマカロック隊の到着遅れたことなど様々な要因災いして2隊の再集合遅れた。この遅れの間に、3月6日1日使ってカーティスはその軍隊再配置させて予期しなかった後方からの攻撃備えたので、カーテイス軍は南軍の2翼の間に位置することになった。さらに加えて、ヴァン・ドーンの前衛部隊が偶然エルムスプリングス近く北軍警邏隊に駆け込んでしまい、北軍南軍接近知ったピーリッジの戦いは、南北戦争の中で南軍勢力北軍上回っていた数少ない例の一つである。ヴァン・ドーンはこの軍隊指揮執る少し前に、妻のキャロライン宛てて次のような手紙書いた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私は今まずいことになっている名声得てこの国のために群を抜く働きをするか失敗するかだ。失敗してはいけないし、それは許されないセントルイスを奪らなければならない。...そして歳だ! ヴァン・ドーンはマカロック隊の合流待った後で辛抱できなくなり3月7日時点現有勢力行動起こすことに決めた午前9時頃、エルコーン酒場に近い北軍陣地攻撃するようプライス命じプライス負傷したにも拘わらず、夜までに北軍後退させ、カーティス軍の通信線遮断することに成功した一方マカロックはヴァン・ドーンの命令異な経路取っており行軍急いでいたが、カーテイス軍の防御陣の一部戦っていた。この戦闘早い段階マカロックジェイムズ・M・マッキントッシュ准将戦死し効果的な攻撃組織する指揮官がいないままになったその夜に、プライス隊とマカロック隊の残兵合流し、ヴァン・ドーンは次の行動熟慮した。 翌3月8日、カーテイス軍は前日いた場所から約1マイル (1.6 km)後退して同じよう強固な防御陣地にいた。ヴァン・ドーンぐんはピーリッジ山の前に防御的に配置し、十分明るくなったときに北軍の対応を見るためにその陣地向けて残っていた砲弾発射させた。北軍砲兵隊応射してきてヴァン・ドーン軍の大砲大半破壊した続いてカーテイス軍が反撃掛け対抗する歩兵隊接触もほとんど無いままに南軍潰走させた。ヴァン・ドーンは南方撤退する決断下し1週間間人家も希な地域撤退する間に兵士達地域数少ない住人から分け与えられ少な食料凌いでいった。西部軍ボストン山脈の南に残してきた輜重隊にやっと合流することができた。ヴァン・ドーンの公式報告書では、ピーリッジでのできごと次の様に要約した。 私は先ず、エルクホーンで敵軍破ろうとしたが、全く予期しておらず私の管理下に無かった一連の事故と、訓練行き届かなかった軍隊が私の意図挫いたマカロックマッキントッシュ戦死およびヘーベル捕まったことで、右翼指揮する士官がいなくなったことで全くの混乱となり、2日目敵軍強固な陣地では、戦いから退くしか選択肢無かった。 この戦いで損失については完全に定説出来上がっていない。多く軍事歴史家提示した数字北軍が1,000名ないし1,200名、南軍が約2,000名である。しかし、ヴァン・ドーンの公式報告書では些か異な数字上げている。これによると、北軍戦死800名、負傷1,000名ないし1,200名および捕虜300名で、合計約2,300名となり、南軍800名ないし1,000名が戦死または負傷200名ないし300名が捕虜合計約1,300となっている。 この戦闘における南軍敗北と、ヴァン・ドーン軍がミシシッピ川を渉ってテネシー軍支援するよう命令されたことと併せて北軍ミズーリ州を完全に支配し、ヴァン・ドーン軍がいなくなって事実上防御無くなったアーカンソー州心臓部を脅かすことになった。ピーリッジでの敗北にも拘わらずアメリカ連合国議会4月21日にヴァン・ドーンとその部隊向けて、「アーカンソー州エルクホーンの戦いで勇気技術とうまい行動対し」その感謝議決した。ヴァン・ドーンは、当時南軍陸軍長官ジュダ・P・ベンジャミン提出した3月18日報告書で、「私は負けていない。私の意図が挫かれただけだ。私はまだ成功楽観視しており、機会があればいつでも攻撃繰り返すことを止めないだろう。"」と言って損失受けたという批判反論した

※この「ピーリッジ」の解説は、「アール・ヴァン・ドーン」の解説の一部です。
「ピーリッジ」を含む「アール・ヴァン・ドーン」の記事については、「アール・ヴァン・ドーン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ピーリッジ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ピーリッジ」の関連用語

ピーリッジのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ピーリッジのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアール・ヴァン・ドーン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS