ピーリッジ
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「アール・ヴァン・ドーン」の記事における「ピーリッジ」の解説
詳細は「ピーリッジの戦い」を参照 1861年暮れと1862年の年明けまでに、ミズーリ州の北軍は州内から南軍全てをほとんど追い出すまでになっていた。ヴァン・ドーンがこの方面軍の指揮を執った時、そのおよそ17,000名の兵士と60門の大砲からなる西部軍で既に進行中の事態に対処しなければならなかった。北軍を攻撃して打ち破り、ミズーリ州に入ってセントルイスを占領し、南軍にとって重要なこの州の支配を取り戻すことを望んだ。3月3日にボストン山脈近くに集結した軍隊に合流し、翌日には北への進軍を開始した。 1862年春、北軍サミュエル・R・カーティス准将がアーカンソー州に入って、その10.500名の南西軍で南軍を追跡した。カーティスはその4個師団と50門の大砲を集めて、シュガー・クリークと呼ばれる小川に沿ったアーカンソー州ベントン郡に移動した。その小川の北岸に優れた防御陣地を見付け、南からの攻撃を想定してその要塞化を始めた。ヴァン・ドーンは向かい合うカーティスの塹壕を施した陣地を攻撃しないことにした。その代わりに自軍をプライスとマカロックに率いられる1個師団ずつの2つに分け、カーティス軍の後方で再集合することを期待してそれぞれ北へ進軍させる命令を出した。ヴァン・ドーンは2隊の移動速度を上げさせるために物資用荷車を置いていかせる決断をしたが、この決断が後に重要になることが分かった。南軍には強行軍に適当な装備が不足していたこと(ある者は靴すら無かったと言う)、倒木が道を遮っていたこと、兵士が疲れ飢えていたこと、およびマカロック隊の到着が遅れたことなど様々な要因が災いして2隊の再集合が遅れた。この遅れの間に、3月6日の1日を使ってカーティスはその軍隊を再配置させて予期しなかった後方からの攻撃に備えたので、カーテイス軍は南軍の2翼の間に位置することになった。さらに加えて、ヴァン・ドーンの前衛部隊が偶然エルムスプリングス近くで北軍警邏隊に駆け込んでしまい、北軍は南軍の接近を知った。 ピーリッジの戦いは、南北戦争の中で南軍の勢力が北軍を上回っていた数少ない例の一つである。ヴァン・ドーンはこの軍隊の指揮を執る少し前に、妻のキャロラインに宛てて次のような手紙を書いた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私は今まずいことになっている。名声を得てこの国のために群を抜く働きをするか失敗するかだ。失敗してはいけないし、それは許されない。セントルイスを奪らなければならない。...そして万歳だ! ヴァン・ドーンはマカロック隊の合流を待った後で、辛抱できなくなり、3月7日時点の現有勢力で行動を起こすことに決めた。午前9時頃、エルコーン酒場に近い北軍の陣地を攻撃するようプライスに命じ、プライスが負傷したにも拘わらず、夜までに北軍を後退させ、カーティス軍の通信線を遮断することに成功した。一方、マカロックはヴァン・ドーンの命令で異なる経路を取っており行軍を急いでいたが、カーテイス軍の防御陣の一部と戦っていた。この戦闘の早い段階でマカロックとジェイムズ・M・マッキントッシュ准将が戦死し、効果的な攻撃を組織する指揮官がいないままになった。その夜に、プライス隊とマカロック隊の残兵が合流し、ヴァン・ドーンは次の行動を熟慮した。 翌3月8日、カーテイス軍は前日いた場所から約1マイル (1.6 km)後退して、同じように強固な防御陣地にいた。ヴァン・ドーンぐんはピーリッジ山の前に防御的に配置し、十分明るくなったときに北軍の対応を見るためにその陣地に向けて残っていた砲弾を発射させた。北軍砲兵隊も応射してきてヴァン・ドーン軍の大砲の大半を破壊した。続いてカーテイス軍が反撃を掛け、対抗する歩兵隊の接触もほとんど無いままに南軍を潰走させた。ヴァン・ドーンは南方へ撤退する決断を下し、1週間の間人家も希な地域を撤退する間に兵士達は地域の数少ない住人から分け与えられた少ない食料で凌いでいった。西部軍はボストン山脈の南に残してきた輜重隊にやっと合流することができた。ヴァン・ドーンの公式報告書では、ピーリッジでのできごとを次の様に要約した。 私は先ず、エルクホーンで敵軍を破ろうとしたが、全く予期しておらず私の管理下に無かった一連の事故と、訓練の行き届かなかった軍隊が私の意図を挫いた。マカロックとマッキントッシュの戦死およびヘーベルが捕まったことで、右翼を指揮する士官がいなくなったことで全くの混乱となり、2日目の敵軍の強固な陣地では、戦いから退くしか選択肢が無かった。 この戦いでの損失については完全に定説が出来上がっていない。多くの軍事歴史家が提示した数字は北軍が1,000名ないし1,200名、南軍が約2,000名である。しかし、ヴァン・ドーンの公式報告書では些か異なる数字を上げている。これによると、北軍は戦死約800名、負傷1,000名ないし1,200名および捕虜300名で、合計約2,300名となり、南軍は800名ないし1,000名が戦死または負傷で200名ないし300名が捕虜、合計約1,300名となっている。 この戦闘における南軍の敗北と、ヴァン・ドーン軍がミシシッピ川を渉ってテネシー軍を支援するよう命令されたことと併せて、北軍はミズーリ州を完全に支配し、ヴァン・ドーン軍がいなくなって事実上防御が無くなったアーカンソー州の心臓部を脅かすことになった。ピーリッジでの敗北にも拘わらず、アメリカ連合国議会は4月21日にヴァン・ドーンとその部隊に向けて、「アーカンソー州エルクホーンの戦いでの勇気と技術とうまい行動に対し」その感謝を議決した。ヴァン・ドーンは、当時の南軍陸軍長官ジュダ・P・ベンジャミンに提出した3月18日の報告書で、「私は負けていない。私の意図が挫かれただけだ。私はまだ成功を楽観視しており、機会があればいつでも攻撃を繰り返すことを止めないだろう。"」と言って、損失を受けたという批判に反論した。
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