ピールの改革支援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)
「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「ピールの改革支援」の解説
1841年6月4日、ピール率いる保守党はメルバーン子爵内閣に内閣不信任案を突きつけた。メルバーン子爵の上奏を受けてヴィクトリアは庶民院を解散した。解散総選挙(英語版)の結果、保守党がホイッグ党に80議席以上の大差をつけて勝利した。 メルバーン子爵も今度こそ辞職せざるを得なくなった。ヴィクトリアはこの時点でもピールを首相にすることを渋っていたが、アルバートが彼女を説得した結果、同年8月30日にピールに大命を下した。 ヴィクトリアは過去の経緯やそのそわそわした態度からピールを嫌っていた。ピールの方も宮殿に居心地の悪さを感じて長時間宮殿に滞在しようとはせず、ヴィクトリアと疎遠になった。しかし、アルバートは宮廷策謀より首相の職務に全力を挙げているとしてピールの態度を高く評価した。首相ピールはアルバートの支持のもと関税の大幅減税、所得税導入などの改革を推進した。やがてヴィクトリアもアルバートとともにピールに全幅の信頼を寄せるようになった。保守党内部にはピールの改革に反発もあったが、アルバートとヴィクトリアがピールを支持したことにより、ピールは長らく抵抗勢力を押し込むことができた。 ピール首相がミッドランド(英語版)地方の紡績工場主だった関係でヴィクトリアは外国との過当競争や需要低下に苦しむ織物産業に関心を持つようになり、イングランド織物の宣伝のために1842年5月12日に14世紀の絹織工業をテーマにした「プランタジネット舞踏会」を開催した。アルバートはエドワード3世、ヴィクトリアはフィリッパ王妃の仮装をした。しかし、この舞踏会はエドワード3世を侵略者として憎むフランス人の反発を買って英仏関係をギクシャクさせたばかりか、イギリスのマスコミからも失業者が飢えている時に何をやっているのか、という強い批判に晒された。 1842年5月12日のプランタジネット舞踏会におけるヴィクトリアとアルバートを描いたエドウィン・ランドシーアの絵画 首相サー・ロバート・ピール。
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