ピーリー・レイースの遠征(1548年 - 1552年)
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「オスマン帝国のインド洋遠征」の記事における「ピーリー・レイースの遠征(1548年 - 1552年)」の解説
第一次遠征ののち、アデンを奪いジッダを襲ったポルトガルは、紅海の奪取を目論んでいた。オスマン帝国は紅海とイエメンでの影響力を回復するため、ピーリー・レイースをインド艦隊の提督に任じた。彼は1548年にアデンを再征服し、紅海からポルトガル勢力を駆逐した。 1552年、ピーリー・レイースは30隻の艦隊を率いてスエズを発し、ペルシア湾を目指した。途中でマスカットを征服してオマーンをオスマン帝国の勢力圏に組み入れ、ホルムズ海峡の要衝ホルムズ島を包囲した。しかしオスマン軍は、市街までは占領したものの、ポルトガル軍が立て籠もる砦を攻略することができなかった。その後ピーリー・レイースはカタール半島とバーレーン島を占領した。ここで彼はポルトガル艦隊接近の報を受け、艦隊の大部分を湾の奥のバスラに収容し、自らは自身が所有する2隻のガレー船とともにスエズへ引き返した。この行動を戦線放棄とみなしたスレイマン1世は、1553年にピーリー・レイースをカイロで処刑させた。
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