ビデオディスクの規格争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 00:19 UTC 版)
当時はVTRがある程度普及し、次は絵の出るレコードとしてビデオディスクが待望されており、VHDはレーザーディスク (LD) との規格争いが行われた。 VHDのファミリー作りは当初は難航した。1978年9月のVHDの発表時、日本ビクターの当時の親会社の松下電器産業は1977年11月に発表していた自社方式のビデオディスクVISCの開発を進めていたが、1980年1月になって松下電器はVISC方式を放棄することとVHD方式を採用することを発表。松下グループでのビデオディスクの統一が行われた。次いで同年9月には東京芝浦電気(現・東芝)をVHD陣営に引き込む。これをきっかけに、三洋電機、シャープ、三菱電機、赤井電機、オーディオテクニカ、山水電気、ゼネラル(現・富士通ゼネラル)、トリオ(現・JVCケンウッド)、日本楽器製造(現・ヤマハ)、日本電気ホームエレクトロニクスの日本の11社、日本国外のメーカーはアメリカのゼネラル・エレクトリック (GE)、イギリスのソーンEMI(英語版)が参入した。 当初はパイオニア(ホームAV事業部。現・オンキヨーホームエンターテイメント)1社のみのLD陣営に対し、VHD陣営は13社と陣容は圧倒的で、「日の丸規格」とも言われ、マスコミはVHD陣営の圧勝を予想した。ただし、VHD陣営は数こそ多かったものの、名乗りを上げてはみたがOEM供給で発売しただけで、自社での開発や生産の計画がないメーカーも多かったとも言われる。後にVHD規格の賛同会社には、アイワ(初代法人。現・ソニーマーケティング)、クラリオンも加わった。 通産省(現・経済産業省)はVHS方式とベータ方式のビデオ戦争時と同じく、ビデオディスクについても規格統一を働きかけたが、LD方式を推進したパイオニアは、LD方式が優れており、技術発展のために安易な規格統一はせず、市場で決着をつけるべきだとしてこれを拒み、1社のみでLDの発売に踏み切った。 当初はどちらの陣営にも参加しなかった主なメーカーとしては、ベータ方式のビデオテープレコーダーを擁して日本ビクターとライバル関係にあり、1981年から業務用LDソフトを生産していたソニー、アメリカでRCA社にCED方式のビデオディスクプレイヤーをOEM供給してアーケードゲームのLDゲームで業務用でLDに参入していた日立製作所、当時日立グループでデンオン(DENON。現・デノン)ブランドを擁していた日本コロムビア(オーディオ事業部。現・ディーアンドエムホールディングス)、光学式ビデオディスクシステムを開発したフィリップス傘下だった日本マランツ(現・ディーアンドエムホールディングス)、オーディオ機器メーカーティアックなどがあり、いずれもその後LD陣営に参入した。 VHD方式はプレーヤー生産の目処はたったものの、ディスク生産の技術開発は予想以上に難航し、技術的問題の解決に3年を要した。そのため、発売は当初予定の1981年4月から大幅にずれ込み、1982年4月には無期限の延期が発表され、実際の発売開始は1983年4月となった。そして同年5月までに日本ビクターを含むVHDファミリー5社から自社ブランドで製品が発売された。 市販化まで年月を要したことでLDの躍進を許した格好となり、日本国外でゼネラル・エレクトリック、ソーンEMI、日本ビクター、松下電器産業の4社が行っていたVHDソフトウェア、VHDハードウェア供給合弁企業は本格始動前に空中分解し、GEとソーンEMIは合弁を解消してVHDから撤退。VHDの海外戦略は破綻する結果となった。 1984年にCD/LDコンパチブル再生機がパイオニアやソニーなど複数社から順次発売されたことでLDソフトのセル市場が確立。1985年にはVHD陣営だった日本楽器製造がLD陣営に鞍替えし、LD陣営は7社に増加するなどLDを採用するメーカーは拡大していった。 1987年に日本ビクターは立体映像とQX方式に対応したフラッグシップ機の「HD-V1」を発売したが、それまでVHDファミリーの一角として「ディスクロード」のシリーズ名で販売していた松下電器産業がVHDプレーヤーの販売を終了し、LD陣営に鞍替えした。これにより新規ユーザーはLDを嗜好するようになり、パイオニア1社で始まったLD陣営は1989年時点で19社となった。その結果、LDのビデオディスク市場でのシェアは、1987年には75%、1988年には87%、1989年には95%を獲得しVHDは敗れ去った。世帯普及率が5%程度のビデオディスクは嗜好商品であり、価格の優位よりも性能が消費者に重視されたためと言われる。 VHDの敗退は採用メーカー数で圧倒しても市場を制覇することはできない例として引用されることがある。これは、技術的に優位だったベータマックスがVHSに敗退した例と比較して語られることもある。IEC(国際電気標準会議)で規格がはかられていたのは、光学式ではなくVHD方式だった。 日本ビクターはLDプレイヤーを発売しなかったが、VHDがビデオディスク市場で縮小してからは、自社ソフト部門もVHDからLDへとシフトが進み、日本ビクター製作の邦画・洋画(主に傘下のラルゴエンタテインメント作品)・アニメ・カラオケなど積極的にLD化していた。また、関連会社のRVC(RCAビクター。現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)が1985年に、メイジャーズ(JVCケンウッド・ビクターエンタテインメントの子会社)とパック・イン・ビデオが1990年(平成2年)にLDソフトを発売開始した。日本ビクター及びビクターエンタテインメントでLDソフト発売を手がける以前は、ポリドール・レコード(現・ユニバーサル ミュージック)や創美企画(映像ソフト部門は現在のハピネット)など他社レーベルより一部の作品を発売していた。 また、日本ビクターがVHDで発売していたシティーハンターシリーズなどは、最大のライバルであるパイオニアの子会社パイオニアLDC(現・NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)よりLDを発売していた。機器面でも日本ビクターが製造発売していたMUSEデコーダーにはHi-Vision LD専用端子を備えていた。 DVD以前は他の規格も含めてVHSの牙城を崩すほどの商品が登場しなかった。
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