ヒーリー遺跡群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 07:07 UTC 版)
「アル・アインの文化的遺跡群」の記事における「ヒーリー遺跡群」の解説
ヒーリー遺跡群 (Hili Assemblage, ID1343-002)は、公園として整備されているヒーリー考古学公園(英語版)およびその周囲の遺跡群で構成される。それらの遺跡は紀元前3000年頃から前300年頃までのもので、青銅器時代初期から鉄器時代末期に当たる。主たる遺跡は考古学公園にあるが、その近傍にも重要な遺跡群は残る。なお、考古学公園は発掘現場のみでなく憩いの場としての庭園も整備されているが、そのことは逆に、世界遺産登録にあたって截然と分けた管理を求められることとなった。ヒーリー遺跡群は、多彩な遺構が残り、その全体がかつてはオアシス集落であったと推測されている。 ヒーリー考古学公園内に残る重要な遺跡はヒーリー1遺跡 (Hili 1 Archaeological Site)、ヒーリー10遺跡 (Hili 10)、E号墓・N号墓 (Tombs E and N) などである。このうち、ヒーリー1遺跡は青銅器時代の井戸を中心に築かれた砦のような建造物を含む集落跡で、その時期の灌漑の様子も窺わせるものとなっている。ヒーリー10遺跡も井戸を擁する塔のような建造物を含む遺跡で、紀元前3千年紀後半の土器が発見されている一方、紀元前1千年紀の土器の発見によって、鉄器時代に再利用されたことが明らかになっている。E号墓、N号墓はいずれもその出土品がウンム・アン=ナール文化の解明に寄与する墳墓であるが、前者が地上に築かれた円形墳墓、後者が地下に造られた石室墳墓という違いがある。ウンム・アン=ナール期には、ハフィート式墳墓から蜂の巣形墓へと変化し、それがさらに大型化され(ハフィート式の直径6 - 7メートルに対し、7 - 12 メートル)、積石も面取りされるなど、洗練された「ウンム・アン=ナール式墳墓」になっていた。E号墓は6つの部屋に分かれた墳墓で、ウンム・アン=ナール式を示している。それに対し、N号墓は明らかに異なる様式を示している。隣接する墓でのこのような様式の違いは、UAEのアジュマーン首長国で1986年に発見されたアジュマーンA号墓、B号墓の組み合わせにも見られるが、その理由は完全には解明されていない。ただし、調査を手がけたUAEの専門家の見解では、再葬の一種の可能性が挙げられている。ウンム・アン=ナール文明においてはある時期以降、地上の墳墓に安置した遺骸が腐朽した後にそれを一度取り出し、解体したり焼いたりした上で、隣接する墓穴に葬り直すことが行われており、その種の竪穴からは副葬品として破損していない土器も見つかる。ヒーリーN号墓やアジュマーンB号墓では多数の遺体がバラバラなのに対し、土器は完全な形で随伴するため、(単なる竪穴ではなく石室が築かれているという違いはあるが)再葬に至る過渡的状態などの可能性を想定できるのである。 世界遺産の構成資産としてのヒーリー考古学公園には、公園の外側に残るいくつかの遺跡(ヒーリー8、14、15、17)も含まれる。その中で傑出しているのはヒーリー8遺跡で、これはアラビア半島のペルシア湾岸地域では例外的にしか見つかっていない遺丘の一つである。しかも、ハフィート期、ウンム・アン=ナール期、ワーディー・スーク期の全期の遺跡が層を成しており、全貌が明らかになっているわけではないとはいえ、上述のように放射性炭素年代測定が可能な考古資料も発掘されていることで、遺跡の編年の基準として機能している。このヒーリー8遺跡は日干しレンガの「円塔」(厳密には四隅が丸みを持った方形プランの塔)を伴う遺跡で、時期ごとの土器の出土が豊富な一方、それ以外には特筆すべき出土品がない。生活というよりも生産が営まれていた場所とする推測もあるが、どのような機能を担っていたのかは確定されていない。このヒーリー8遺跡は層序に従ってIからIV期に分けられており、表層から土器片が見つかるにすぎないIV期以外は、さらに細かい時期区分がなされている。I期はa から c に細分化される最古層で、ハフィート期に属する。前述のように、この時期のヒーリーに住んでいた人々がハフィートの墳墓群を築いた人々に含まれていた可能性が指摘されている。「円塔」はI期には一辺が15 メートルほどの隅円方形であった。II期がウンム・アン=ナール期に属し、a から g に分けられた上、c はさらに c1, c2 という形で二分されている(c の細分化は a から g までの分類がなされた後に行われた)。II期には「円塔」が更に拡大し、20 x 22 メートルの四隅が丸みを持った長方形のプランとなり、内部に井戸、周囲に濠が築かれるなどの変化が見られた。さらに、II期後半(e および f)には銅を加工するための鋳型、炉などが発見されている。III期はワーディー・スーク期に対応し、a と b の2期に分けられている。前述の通り、ワーディー・スーク期はある種の「衰退期」であり、出土する土器の様式や製法に明らかな違いが見られる。IV期は前述の通り、土器片が採集されるに過ぎない層で、ワーディー・スーク期に属している。 ヒーリー14遺跡とヒーリー17遺跡は建造物の種類は異なるものの、ともに鉄器時代の遺構である。後者は一部の住居の調査が行われているが、前者は世界遺産推薦時点までには本格的な調査は実施されていなかった。 ヒーリー15遺跡は長さ450 メートルの水路を含む紀元前1000年ごろのファラジであり、この規模のファラジとしては最古の部類に属する。ヒーリーの遺跡群から最古の部類に属するファラジが発見されている点は、この世界遺産の説明でしばしば特筆されている。 ヒーリー2遺跡は鉄器時代の住居や農業の様子を伝える村落の遺構であり、公園の西側に位置する。1976年から1980年に最初の発掘が行われた後、1983年から1990年にさらなる調査が実施された。 ヒーリー北A号墓はウンム・アン=ナール期の墓として最大級というだけでなく、内部の構造や被葬者・出土品の調査が行き届いている例としても貴重である。その内部は2階建てないし1階建てで、壁によって4部屋に仕切られている。そこからは188体の遺体(小児6、成人男性60、成人女性58、性別不明60)が発見されており、遺体には死後に切断されたり焼かれたりした痕跡が見られるものが含まれるが、再葬用の墓は伴わない。土器も多く出土しており、その中にはイランやインダス文明のものと酷似する文様も見られるが、地元産も多く、とりわけクロライト製容器の出土数(約80)はオマーン半島で最も多い。この墓の情報を補完するものとしてヒーリー北B号墓が登録された。A号墓と様式は似通っているが、大きさの点と保存状況の点でA号墓よりも劣る。 公園から 3 キロメートルほど離れた場所に位置するマウンドであるルマイラ遺跡もヒーリー遺跡群に含まれている。1960年代にデンマークの調査隊がすでに調査に着手しており、その後も各国の調査隊の調査が行われてきた結果、紀元前2千年紀と前1千年紀との、時代の離れた2期の集落跡が発見されている。 世界遺産登録対象は以下の通りである。 ヒーリー遺跡群 (ID1343-002)ID構成資産名日本語(仮訳)登録範囲 (ha)下段は緩衝地域備考1343-002.1 Hili Archaeological Park ヒーリー考古学公園 193.83(518.4) サブ・コンポーネントは「ヒーリー考古学庭園」(Hili Archaeological Garden)、「ヒーリー8遺跡の集落と墳墓群」(Hili 8 settlement and Group of Tombs)、「ヒーリー14遺跡」(Hili 14)、「ヒーリー15のファラジ」(Hili 15 falaj)、「ヒーリー17遺跡」(Hili 17) の5件である。 1343-002.2 Hili 2 ヒーリー2遺跡 1.71(528.4) 以下、ヒーリー遺跡群では考古学公園以外にサブ・コンポーネントを挙げられている遺跡はない。 1343-002.3 Hili North Tomb A ヒーリー北A号墓 0.57(518.4) 1343-002.4 Hili North Tomb B ヒーリー北B号墓 0.12(518.4) 1343-002.5 Rumailah Site ルマイラ遺跡 5.43(518.4)
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