ノルマンディでの敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)
「エルヴィン・ロンメル」の記事における「ノルマンディでの敗北」の解説
ロンメルの精力的な準備にも拘らず1944年6月時点ではまだ防備は不十分であった。しかし、ドイツ軍の気象班は6月上旬は天候が悪化するため、6月10日までは連合軍の侵攻はないと判断していた。気象班の報告を信じたロンメルは、不覚にも妻の誕生日を祝うためにドイツ本国に帰国することとした。しかしロンメルらが信じたドイツの気象予測はお粗末なもので、肝心の観測所を西大西洋地域に設置しておらず、詳細なデータもなしに気象予測を行っていた。気象班の報告を信じたドイツ空軍は、6月に入ってから1回も空中哨戒を行っておらず、盲目も同然であったが、そのドイツ軍の油断をついて、D-Dayこと6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行された。 これらロンメルを始めとするドイツ軍の失策によって、連合軍の作戦は完全な奇襲になってしまい、易々と上陸を許すこととなった。そして、海岸線の防備については、ロンメルとルントシュテットの対立もあって結果的にどっちつかずとなり、オマハ・ビーチを除いて殆ど満足な抗戦すらできなかった。また、数少なかったドイツ軍機甲部隊による反撃のチャンスも、連合軍空挺部隊による欺瞞作戦にはまってその機会を失ってしまったため、満足な反撃ができなかった。ロンメルは、午前10時15分に連合軍上陸の一報を妻の誕生日を祝うため帰宅していたドイツのヘルリンゲンの自宅で受け取ったが、そのとき「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」と嘆いたという。 ロンメルは慌ててヒトラーとの会見をキャンセルし、ラ・ロシュ=ギヨンにある司令部に向かった。前線では第21装甲師団(英語版)が反撃のために集結し増援を待っていたが、午後5時前にロンメルから軍参謀長ハンス・シュパイデル中将に連絡が入り、シュパイデルが連合軍の主作戦地がノルマンディとはまだ確定できないこと、第21装甲師団は増援を待って反撃に転じるとの報告を行うと、ロンメルはそれを一喝し、直ちに第21装甲師団単独で反撃を行うよう命じた。ロンメルの命令に従って、同師団の第22戦車連隊は、第192装甲擲弾兵連隊第1大隊と協同で連合軍が上陸した海岸に向け突進したが、途中でイギリス軍第27機甲旅団と激突し、一方的にIV号戦車19輌を撃破されて撃退された。 司令部に到着したロンメルはその後も旺盛な攻撃意欲で指揮下の装甲師団に反撃を命じ続けたが、制空権もなく激しい艦砲射撃の中で兵力の集結もままならず、損害を出し続けた。戦略予備として留め置かれていた装甲教導師団もようやく前線に到着したが、空襲下の移動で装甲車輌85輌、戦車5輌、トラック123台(うち燃料車80台)が撃破される大損害を被っており、ロンメルは北アフリカで味わった制空権を失った装甲部隊の悲劇を、再びノルマンディで味わうこととなった。ドイツ軍は連合軍の攻撃機をヤーボ(Jabo)と呼んで恐れたが、ロンメルも幾度となくヤーボに襲われ、6月10日に西部方面戦車軍司令部に車で向かったロンメルは到着までに30回もヤーボに襲われ、そのたびに車を捨てて腹ばいになってヤーボをやり過ごしたので、司令部に到着したときには泥まみれであった。 ノルマンディの戦況悪化に居ても立っても居られなくなったヒトラーは、“敗北主義者”の将軍らを叱咤するため、6月16日にフランスのヴォルフスシュルフトII(英語版)にやってきた。特に信頼していたロンメルの戦いぶりに幻滅しており、論破すると意気込んでいた。しかし、この頃には重要拠点シェルブールも陥落寸前で、もはや戦線を持ち堪えられないことは明らかとなっていた。そこでロンメルはルントシュテットと戦線を後退することをすり合わせると、フランス北西部を放棄して軍を撤退させ、ロワール川とセーヌ川を今後の防衛線として各装甲師団を再配置し大規模反攻に備えるべきとヒトラーに上申した。しかしヒトラーはロンメルの上申を拒否すると、「V1飛行爆弾が対イギリス戦の帰趨に決定的効果をもたらす」「ジェット機の大群が連合軍の航空優勢に引導を渡すはず」などと現実離れした長広舌をふるったのち、「退却も作戦もあるか。立ち止まって保持するか、死ぬかだよ」と死守を命じた。 現実離れしているヒトラーに腹を立てたロンメルは「既にドイツは孤立し、西部戦線は崩壊の瀬戸際にあり、国防軍は東部戦線だけでなくイタリアでも敗北しつつある」と現状を分析し「できるだけ早い時期に、この戦争を終わらせるべきだ」とヒトラーに促した。ヒトラーは同席していた他の将軍や副官らが恐れるほどにロンメルに対して激怒し「あいつら(連合国)が交渉に応じるはずがない」と拒絶した。これほどまでにヒトラーが激怒したのは、これまで信頼し愛顧してきたロンメルの口から、ヒトラーはこのような言葉を聞きたくはなかったからであったと同席していたヒトラーの副官は回顧している。ヴォルフスシュルフトIIを去るにあたりロンメルはヒトラーに「我が総統、そもそも、今後の戦争の経緯について、どのようにお考えなのでしょう」と尋ねると、ヒトラーは不快そうにしながら「その問題は、貴官の職掌ではない。私に任せておかなければならないことだ」と突き放している。ロンメルが帰った直後、ヒトラーが期待していたV1飛行爆弾がジャイロスコープの不具合でヴォルフスシュルフトIIに着弾した。これに驚いたヒトラーはその夜のうちにベルヒテスガーデンのベルクホーフに戻ってしまい、この後二度とドイツ第三帝国から離れることはなかった。 6月29日にロンメルとルントシュテットは、戦況報告のためベルヒテスガーデンのベルクホーフに呼び出された。そこでロンメルとルントシュテットは西部戦線の戦況は絶望的であり、再度、西側連合国との和平交渉を求めた。しかし、ヒトラーは前回と同様に2人の申し出を拒否し、軍事的なことのみ報告せよと言い放った。なおもロンメルが食い下がって政治的要求を口にしようとしたが、ヒトラーはそれを遮るとロンメルに退去を命じた。ロンメルはヒトラーの命令通りベルクホーフを後にしたが、これがロンメルとヒトラーの最後のやり取りとなり、この時点でロンメルのヒトラーに対する信頼は消え失せた。 その後の7月2日には、ルントシュテットがヒトラーの死守命令を破って装甲部隊の退却を許したため、ヒトラーから西方総軍総司令官を解任されると、7月17日、ノルマンディーの前線近くを走行中のロンメルの乗用車がカナダ空軍第602飛行隊のスピットファイアによって機銃掃射され、ロンメルは頭部に重傷を負って入院した。
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