ノルマンディとフランス王領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 05:00 UTC 版)
「ロマネスク建築」の記事における「ノルマンディとフランス王領」の解説
西フランク王国を継承したカペー朝フランス王国では、初期ロマネスクの時代に固有の建築形態を創出することはできなかった。イル=ド=フランスを中心とする王領の建築は、ケルンを中心とするラインラントの建築とかなり密接な関連性があり、この地方には木造屋根を持つ小規模のバシリカ式教会堂が多数建設されているが、いずれも固有の意匠を持つものではない。ヴィニョリのサンテティエンヌ聖堂やパリのサン・ジェルマン・デ・プレ聖堂などが、この時代に建設された比較的大きな教会堂であるが、現在ではほんの一部が残るのみである。ゴシック建築のヴォールト天井と付柱を除けば、ランスのサン・レミ聖堂が、初期ロマネスクの基本的な構成のひとつであるトリビューン付きバシリカの形態をよく残しており、この地域のゴシック建築以前の教会堂がどのようなものであったか窺わせる。 この時期のフランスにおいて最も重要な地域は、ノルマン人の首領ロロが占拠したノルマンディ地方で、双塔型西正面、内陣周歩廊、トリビューンなどの構成は、10世紀から11世紀初頭にかけて建設された教会堂において、断片的にではあるがすでに形成されていた。ジュミエージュの修道院付属ノートル=ダム聖堂(1070年頃)は廃墟となっているが、フランス王領にも残っていないすばらしい建築で、上記の構成をすべて備えた、知られる限り最も古い教会堂である。上部には2基の塔を備えるが、広間を備えた西正面中央の突出部はプレ・ロマネスクの西構えの名残で、双塔型西正面に至る過渡的形態を備えている。双塔型西正面はジュミエージュのような過渡期を経て、11世紀末に完全なかたちとして現れ、やがて13世紀に北フランスの盛期ロマネスクの標準的な形態となって定着した。征服王ギョームとマティルダが、近親婚の贖罪として建設したカーンのサンテティエンヌ大修道院(アベイ・オー・ゾンム、すなわち男子修道院)とサント・トリニテ(アベイ・オー・ダーム、つまり女子修道院)は、最終的な完成は12世紀末であるが、初期ロマネスクの構成をよく伝えている。特にアベイ・オー・ゾンムの全く装飾のない厳格な西正面は、初期ロマネスク建築の双塔型西正面の傑作であると言える。 ロマネスク建築 フランス フランスのロマネスク建築は、聖地巡礼と修道院の改革運動が作り上げたと言っても過言ではない。特徴として「多様性の中の統一」という言葉で表現されるように、地方色豊かな多様性を示していながら、終末論的世界観によるキリスト教信仰の表現としての統一性をも含んでいた。地元の材料と技術を優先させ、地方の風土と一体化したロマネスク教会堂が多くあった。元来北東の教会建築は、軽い木造の小屋組を敷き高い大きな空間を持つことを可能にした。北部地方では高い身廊と多塔構想を抱く教会堂が多くみられる。また、ドイツの影響を受けて袖蛇の先端を半円形に整え三葉形に開き、3つの祭室を設けた三葉形内障式プランもケルンで採用されている。ドイツとの文化的接点であるアルザス地方にあるロスハイムの聖ピエール・聖パウロ教会堂では天井を交差ヴォールドに早くに改めた例である。フランスのロマネスクの典型例は、中部のブルゴーニュ、オーヴェルニュ地方で見かけられる。
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