ヌーの対抗クーデター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 16:38 UTC 版)
「1963年ベトナム共和国の軍事クーデター」の記事における「ヌーの対抗クーデター」の解説
十月中旬までには、ジエム大統領とヌーはベトナム共和国陸軍の将軍や大佐達がクーデターの計画を練っていた事に気が付いていたが、たとえディンが閣僚ポストを要求した後にゴ兄弟が彼に用心深くなっていたとしても、ディンが彼らと堅く結び付いていたとは知らなかった。 ヌーはそれから将軍達の裏をかく対抗クーデターの計画を立てた。将軍達はこれを聞いてヌーに対抗しなければならないと決定した。他の将軍達はそれでもディンを疑っていて、彼が裏切って宮殿に寝返るのではないかと思っていた。トン・ダット・ディン(英語版)がヌーの計画に呼び出されたと判明し、彼が実際にどちら側に属しているのか不明確だったので、彼らはもしディンがゴ一族を引き摺り下ろすのを助ければ彼を内務大臣にすると約束した。ディンから保証を得たので、将軍達はより若い将校達を宥め、彼らのクーデター計画は将軍達の計画に統合された。 将軍達の計画の一部として、ディンは第7師団(英語版)の司令官(後に少将となった)ブイ・ディン・ダム(英語版)や二人の連隊司令官、装甲部隊の司令官、 第7師団とミトの地域長の双方と話をさせる為に、軍団の副司令官だったグエン・フー・コ(英語版)大佐をミトに送り込んだ。ジエム政権が軍を掌握し前に進める事が不可能になった事を理由に彼らにクーデター計画に加わる事を勧めて、ディンがそうしようとしている間に彼はクーデター計画に参加していたツァオ以外の全ての将軍に述べた。一つの文書によると、ディンはジエム支持派の為にジエムとヌーにコの行動を報告する積もりで、宮殿に取り入る為に胡麻を擦る演技をする機会を狙っていたという。 ヌーのエージェントが会話を耳にして宮殿に報告した。ゴ兄弟がディンに直接会ってミトで何が起きているのかを報告させると、トン・ダット・ディン(英語版)は彼の代理人の行動に驚きを装った。彼は泣き出して、「あなた方が私を疑っているからこれは私の過ちです。私は悲しかったからこの15日間仕事をせず自宅に待機していました。しかし私はあなた方に対抗する積もりはありません。私はあなた方に信用されていないと知って悲しいです。グエン・フー・コは揉め事を起こす為に私が居なかった事を利用したのです」と言った。 ディンは大声を上げて彼の代理人を殺害させたと誓って、コの行動について何も知らなかったと主張した。ヌーはこれに反対しコが計画立案者を捕らえる為に生きていて欲しいと述べ、これを達成する為にディンを利用しようとした。ゴ兄弟がディンに不信感を持っているにも拘わらず、ゴ兄弟はこれを問題化せず、ディンを昇格させると話した。ヌーはディンとトゥンに命令し、この二人はベトナム共和国陸軍からではなく宮殿から直接命令を受けていたが、ゴ一族に対する偽装クーデターを立案するように命じた。ヌーの目的の一つは反ジエム派を騙して偽装クーデターに参加させ、誰が参加しているのかを特定し排除する事だった。宣伝のもう一つの目的は、世間の人々にジエム体制が強固であるという間違った印象を与える事だった。 「オペレーション・ブラボー(英語版)」というコードネームが付けられ、計画の第一段階は何人かのジエム支持派の兵士を外見上は裏切り者の下級将校によって導かれた反乱分子として偽装クーデターをでっち上げ、首都を荒らす事に関与させる事だった。最初のクーデターの作り上げられた混沌の間に、偽装されたジエム支持派は暴動を起こし、その後の破壊活動でズオン・バン・ミン、チャン・ヴァン・ドン(英語版)、レ・ヴァン・キム(英語版)といった将軍や彼らを助けようとしていた下級将校を殺害する計画が立てられた。ジエム支持派やヌーの地下人脈も同様に、名ばかりで相対的に無力な副大統領グエン・ゴック・ト(英語版)やベトナムで軍事顧問として任務に就いていたCIAのエージェントルシアン・コネイン(英語版)、そしてロッジといったクーデター計画に加わっていた何人かの人々を殺害する計画だった。仏教徒や学生の反対運動の指導者達も同様にターゲットとされた。彼らは「中立派で親共産主義的分子」とされて非難された。ジエムとヌーがブンタウへと逃亡している間に、トゥンはそれから指名される事に同意していなかった反ジエム派の活動家で構成される「革命政府」の樹立を告知した。偽の「対抗クーデター」がその後に続いて、それによってディンの軍隊と同様に共産主義者と戦うという名目でサイゴンを出発し、トゥンの部下達はジエム体制を確認する為に誇らしげにサイゴンに再突入した。ヌーはそれから反体制派を一斉検挙した。 二重エージェントになっていたディンは偽装クーデターの任務に配置されて、首都の南に駐留していた第7師団を統率する事が追加的に許された。この師団は以前はメコンデルタの第4軍団(英語版)の任務に就いていたジエム支持派の将軍ヒュン・ヴァン・ツァオ(英語版)に割り当てられていた。第7師団の再割り当ては第3軍団にサイゴンの完全な包囲を与えた。彼が1960年のクーデター未遂の頃に行った様に、包囲はツァオがジエムを救う為に首都に突入するのを防ぐ。この準備は体制に仕えるというディンの仕事をより簡単にすると思われたが、それはゴ一族を引き摺り下ろす為に利用された。 ヌーとトゥンはディンが反乱軍への忠誠心に気が付かないまま騙された。ディンはトゥンに偽装クーデターが大量の人員を雇用する必要があると言った。彼は「鎧が危険なので」戦車が必要だと言った。ディンは首都で新規の軍が必要になったと言って、「もし我々が首都に蓄えを持ち込めば、アメリカ人が怒りますよ。彼らは戦争をしている訳ではないと文句を言うでしょう。だから我々は特殊部隊を国外に出す事で我々の計画を偽装しなければなりません。これで彼らは騙されるでしょう」と続けた。ディンの本当の意図が反乱軍でサイゴンを襲撃し、トゥンの体制支持派をゴ一族を守る事が出来ない農村地帯に閉じ込める事だったという考えは、ヌーには無かった。 カトリック教徒が死者の日を準備している時に、その翌日の諸聖人の日11月1日にヌーの偽装クーデターが始まった。これによって交通量が少なくなり、軍は自由に道路を動けるようになった。将軍達はディンとヌーとの関係を利用する為に本当のクーデターを同日に開始する事を決定した。 軍事安全長官でクーデター計画首謀者の一人だったド・マウ(英語版)大佐は、間違ったデータを用いて軍事情報部の報告をでっち上げ、共産主義のベトコンが攻撃の為にサイゴンの外に集結していると主張した。彼はジエム大統領とヌーを共産主義者と戦う為に首都の外に特殊部隊を送る事に同意させた。トゥンとヌーは4つ全てのサイゴンを拠点とする特殊部隊を10月29日にサイゴンの外に送る事で合意した。 ジエムのもう一人の弟ゴ・ディン・カン(英語版)はマウを疑い始め、宮殿に伝えた。陸軍参謀総長のチャン・ティエン・キエム(英語版)将軍にマウを逮捕させようとしたが、自らもクーデター計画に関わっていたキエムは意図的に先延ばししたのでマウは自由なままだった。そうしている間に、ゴ兄弟にしてみればジエム支持派を首都へと呼び戻すには遅過ぎた。 コを信用していなかったので、ジエムは10月31日にラム・ヴァン・ファット(英語版)大佐を第7師団を統率させた。伝統に従えば、ファットは師団の統率を始める前に部隊指揮官に表敬訪問をしなければならなかった。ディンはファットに合う事を拒否し、クーデターが進行中の彼に金曜日の午後2時に再び来るようにと言った。そうしている内に、ディンはドンに第7師団の統率件をコに移すという取り消し命令書に署名させた。
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