テレビでの活躍
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1960年代後半(昭和40年代)以降は、なつメロ歌手として活躍する一方、テレビ番組の司会者やコメンテーターとしての才能を発揮。歌手というよりタレントとして認知されていく。B級歌謡番組やモノマネ番組などの「審査委員長」を務めることが多く、紹介の時に「近江俊郎大先生!!」などと紹介された。往年のスター歌手でありながら、本人も偉ぶらない洒脱なキャラクターを通していたことから、この頃には既に好々爺の風格があった。萩本欽一のバラエティー番組テレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!?」出演時は「トウシロウ君」の名でレギュラー出演、ユーモラスな学生服姿と飄々とした演技でお茶の間を沸かせたこともある。やはり萩本が主演だったフジテレビ「オールスター家族対抗歌合戦」で審査員を務め人気を得る。しかし、1985年の年末に同じ審査員だった立川清登が急死し、翌年1月に異例の追悼特番を放送し、出演者代表で弔辞を読み号泣した。 一連の喜劇映画を監督した経緯からお笑いにも造詣が深く、「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)の審査員も永年務めていた。このほか「ドバドバ大爆弾」(テレビ東京)等でも肩書きは常に審査委員長であった。「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」(日本テレビ)が末期のテレビ出演であったが、この時もとんねるずが久々にコントネタを披露する際の審査員役であった。 1976年(昭和51年)、「惜しまれるうちに引退したい」と歌手としての引退を宣言(後年それは妻の想いを酌んだものであることを明かしている)、全国縦断リサイタルを行い、最終公演はNHKホールで「ビッグショー」の公開録画と兼ねて行われた。しかし1979年に恩師である古賀政男の追悼音楽会が開かれるにあたって3年ぶりにマイクを握った。この音楽会において「一番世話になった人の会に美空ひばりが出ないのは人の道に外れている」と発言し、メディアの話題をさらった。一方、美空ひばりの所属プロダクションは、ひばりの不出演は長期劇場公演中のためであり、ひばり自身には出演の意思はあり、もっと早期に製作側の出演要請があればスケジュール調整も可能であったと釈明をしている。その後、もともと幼少時から可愛がっていたひばりとは和解が成立。1985年放送の「思い出のメロディー」では久々に競演し、にこやかに両者が話すシーンも放送されている。 この公演以後「原則、歌手は引退」としながらも、NHK「思い出のメロディー」(1985、86年)やテレビ朝日「題名のない音楽会」(1989年)など、メディアで往年のヒット曲を披露することは少なくなかった。また「今夜は最高!」(日本テレビ)へ出演した際にはこの言動をパロディ化したコントを自ら演じている。 周囲の要望と、引退を勧めたとされる妻から諒承を得たことから1990年(平成2年)にテレビ東京「年忘れにっぽんの歌」で歌手として復帰。舞台劇「影を慕いて」や歌手協会主催の「歌謡祭」などにも活躍を始めるが、1991年10月、1990年に患った前立腺癌が再発したことを公にし「絶対勝ってみせる」と語るが、その直後急激に体調は悪化。入退院を繰り返し、1992年7月5日に肝不全のため死去。命日は誕生日の2日前である。亡くなった翌日には「昭和歌謡大全集・第2弾」(テレビ東京)の収録予定が入っており、また9月には神奈川県内数ヶ所でリサイタルを開く予定があった。 なお、実兄との関係で死去するまで大蔵映画の副社長を務めていた。
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テレビでの活躍
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「ワイリー・コヨーテとロード・ランナー」の記事における「テレビでの活躍」の解説
ロードランナーとワイリー・コヨーテは、1966年(日本では1967年)にテレビアニメ『ロードランナー・ショー』で初主演を果たした。 バッグス・バニー・ショーではステージに参列し、楽屋で騒いだりしていた。 1996年の映画『スペース・ジャム』では、テレビ画面に登場していた。 2003年の映画『ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション』では、ワイリーコヨーテがアクメ社の手下になっている(マービン・ザ・マーシャンも同様)。 ルーニー・テューンズ・ショーでも、3Dアニメに登場し、2Dアニメにも登場した。
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テレビでの活躍
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アメリカのテレビドラマ・「刑事コロンボ」は1970年代に多数のシリーズが製作され世界的に人気を得て、当時の日本でもNHK総合テレビで放送され、以後も度々再放送されたが、その中でピーター・フォーク扮する主人公・コロンボ警部補の愛車として、くたびれた403カブリオレ(米国輸出車)がしばしば登場し、彼のライフスタイルを物語る小道具として存在感を放った。ピーター・フォークが自伝で語る起用の経緯によれば、シリーズのとあるエピソードの撮影に先立ち、自らがコロンボの自家用車のチョイスを任されたが、ガレージ一杯の劇用車のどれを見ても気に入らなかった中、ガレージの隅で色褪せくたびれているうえに1輪がパンクしている403カブリオレに遭遇、直感的に選んだものであったという。 薄汚れたがたがたの403はドラマの中でしばしば不調を起こすが、コロンボはさして意に介する様子もなく、時には名無しの愛犬を助手席に載せ、自らの足として愛用し続けた。 コロンボの世界的な人気により、一時製作中断されていたシリーズが1989年から再開された(日本での題名「新・刑事コロンボ」)が、この時、以前のシリーズの撮影で使用していた403はすでに廃棄されていた。 ピーター・フォークがまとうよれよれのレインコートや指に引っかけた安葉巻と並んで、ぽんこつ403はコロンボの象徴というべきアイテムとなっていた。新シリーズの製作スタッフは、コロンボの愛車として403こそが最も相応しいと判断し、様々な伝手をたどった末に、可動状態の403カブリオレを保有するコレクターからこれを借用して、撮影に供したという。
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