ダム事業により生じる補償案への賛否
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「川辺川ダム」の記事における「ダム事業により生じる補償案への賛否」の解説
1966年に川辺川ダム計画が発表されたが、水没予定となる五木村は即座に「ダム絶対反対」の意思を表明した。ダムは相良村に建設されるが水没予定地のほとんどは五木村であり、かつ町役場など主要公共機関が集中する中心部落の頭地部落など403戸・528世帯が水没する。この水没世帯数は東京都の小河内ダム(多摩川)の945世帯、岩手県の湯田ダム(和賀川)の622世帯、奈良県の池原ダム(北山川)の529戸、岐阜県の徳山ダム(揖斐川)の466戸に次ぐ日本では5番目の大規模な水没対象となる。また、ダム自体は相良村に建設されることから、ダム完成後の莫大な固定資産税は相良村に払われ、五木村には払われない。こうしたことから五木村の存亡に関わり、かつ村には何のメリットもないダム計画であることから、計画の発表と同時に五木村と五木村議会は決議を以ってダム計画に反対する姿勢を明確にした。これ以後、五木村は建設省(現:国土交通省)との交渉を拒絶し、建設省関係者の立ち入りも一切拒んだ。 以後4年間は全く進展がないダム事業であったが、1970年(昭和45年)6月に初めての動きがあった。五木村は独自の立村計画を策定して建設省に55項目に及ぶ要望書を提出した。建設省はここにおいて五木村との交渉を行うことができ、55項目についての話し合いが行われた。1973年(昭和48年)には国会で水源地域対策特別措置法(水特法)が成立し、翌1974年(昭和49年)に施行。同年7月20日に政府は全国20のダムを対象として新しい補償対策を講じた。これは水没戸数30戸以上または水没農地面積30ヘクタール以上のダムに対して、道路、電気・ガス、上下水道などのインフラや砂防・公園施設などの周辺整備及び補償額を国庫より補助するというものである。川辺川ダムは当時の内閣総理大臣田中角栄によって20ダムの一つに指定されたが、水没世帯数403戸であったことから「水特法第9条等指定ダム」の対象になった。これは水没戸数200戸以上または水没農地面積200ヘクタール以上のダムを対象に、前述の補助をさらに厚くするという施策であった。川辺川ダムは他の6ダム1湖沼 と共に指定され、通常のダムよりも手厚い補償対策が行われることになった。 こうした政府の動きもあり、五木村は少しずつではあるが態度を軟化。従来一切認めていなかった地質調査などの立ち入りを認める姿勢を採った。ところが1976年に特定多目的ダム法に基づき三木内閣が川辺川ダムの建設事業基本計画を閣議決定して建設省が告示すると、補償交渉が妥結していない中での計画策定に住民が反発。五木村の水没住民で組織する五木村水没者地権者協議会が「川辺川ダム建設に関する基本計画取消訴訟」などを熊本地方裁判所に提訴、ダム建設計画が法廷に持ち込まれる事態となった。これにより好転しつつあった補償交渉は建設省の行為によって振り出しに戻り、法廷闘争などを含めて8年もの間、再度膠着状態となった。 事態が再度動き出すのは1984年(昭和59年)のことである。先に五木村が提出した55項目の要望について大筋で合意が得られ、協議会との間で遂に補償交渉を妥結する運びとなった。「取消訴訟」は一審の熊本地方裁判所で協議会側の敗訴となり、福岡高等裁判所で控訴審が争われていたが、協議会は交渉妥結に伴い、控訴を取り下げた。同時期相良村との補償交渉も合意に至り、住民との補償交渉は18年目にして全て終了した。1986年(昭和61年)には水特法に伴う水源地域の指定及び水源整備計画の告示が行われ、コミュニティ維持を図るための代替地建設が開始され、頭地部落は水没予定地から山腹へそのまま集落を移転させる方式で整備が開始された。また、国道でありながら車一台が通れるほどの幅員しかない国道445号の整備が開始され、片側一車線の整備された道路が五木村中心部 から人吉市までの間で建設され始めた。1989年(平成元年)には五木村によって「川辺川ダム建設に伴う立村計画」を発表。建設省はこの計画に沿った代替地整備を進めた。そして代替地・付け替え道路の整備が概ね終了した1996年(平成8年)、熊本県と五木村、相良村はダム本体工事の着工に同意。30年の歳月を経て漸く本体工事に取り掛かることになった。
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