ダム事業そのものに対する賛否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 13:53 UTC 版)
「川辺川ダム」の記事における「ダム事業そのものに対する賛否」の解説
また、この時期は公共事業に対する国民の視線が厳しくなった時代でもあり、特にダム事業に付いては「ダム反対派」と呼ばれる市民団体のダム反対運動が盛んになった時期でもあった。 当時は長良川河口堰(長良川)に対する賛否が全国的に渦巻き、第2次橋本内閣の建設大臣であった亀井静香が徳島県の細川内ダム計画(那賀川)を凍結してダム行政の一大転換を図ったことから全国的に未だ建設途上にあるダム事業への風当たりが強まっていた。またこうした運動に対して日本共産党や、いわゆる進歩的文化人、『朝日新聞』などの一部マスコミが積極的に関与し、あるいは連携して運動を拡大させていった。また、民主党もマニフェストにおいて「川辺川ダム計画中止」を公約に掲げるなど、川辺川ダムに否定的な見解を取っていた。 川辺川ダムも当初350億円の予算だった事業費が事業の長期化に伴い1984年に1130億円、1998年(平成10年)には約2200億円にまで跳ね上がった ことから格好の標的となり、天野礼子やまさのあつこなど著名なダム反対活動家が川辺川ダムを「壮大な税金の無駄遣い」として反対運動を全国的に広めていった。彼らダム反対派は川辺川ダムの目的について逐一検証し、「川辺川ダムは無用の長物」として建設中止を強固に求めた。 地元熊本県内でのダムに対する疑問も、この時期起こり始めた。『毎日新聞』記者の福岡賢正が1991年(平成3年)8月から1995年(平成7年)6月まで同紙熊本版に断続的に掲載した「再考川辺川ダム」連載であった。当時、流域で圧倒的なシェアを誇る地元紙『熊本日日新聞』の論調は、ダムに対する否定的な記事は一切見られず、むしろ川辺川ダムのPRを大々的に行う全面広告企画特集を組むなど「ダム肯定」とも取れる風潮にあった。その中で福岡は独自に科学的なデータを集めて検証し、建設省が訴えるダム建設理由の不合理性を次々と指摘した。基本高水流量の妥当性、森林保水力の有無、球磨川本流と川辺川の水質の差異などについて、具体的な数値を示して国の主張に真っ向から反論した。これらの論点は、今日に至るまで国土交通省と反対派による主要な争点として議論され続けており、川辺川ダム反対運動における福岡の影響は、その先鞭を付けたという意味で極めて大きい。同連載は後に「国が川を壊す理由」(葦書房)として出版され、この連載をきっかけに1992年(平成4年)には地元で「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す会」が発足。翌1993年(平成5年)には「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」として改組し、今日に至っている。 さらに地元の住民の中には昭和40年7月梅雨前線豪雨の被害を市房ダムの放流が原因であるとする住民も多く、かつ清流で名高い川辺川の環境を破壊するとして「清流川辺川を守る県民の会」など複数の市民団体が誕生。県内外の反対派と連携して反対活動を広げた。これら一連の活動は書籍やマスコミなどを通じて全国に知れ渡り、川辺川ダム問題を広く世に問う役割を果たした。このような経緯から、当初猛烈な反対運動が展開された五木、相良両村の水没予定地域が補償交渉に軟化姿勢を示し始めた後に、ダムの受益地とも言える下流域、及び流域外において本格的な反対運動が始まるという皮肉な結果となった。 こうした活動は熊本県民の世論形成を促進し、川辺川ダムに対する様々な反応を呼んだ。熊本県はこうした世論の盛り上がりを見て川辺川ダムについて県民が考え、発言する場を設けるべく2001年(平成13年)12月、川辺川ダム住民討論集会を開催した。第二回目からは国土交通省も参加し、川辺川ダムの目的について賛成派と反対派が鋭い論戦を交わした。双方の主張とは概ねこのようなものであった。
※この「ダム事業そのものに対する賛否」の解説は、「川辺川ダム」の解説の一部です。
「ダム事業そのものに対する賛否」を含む「川辺川ダム」の記事については、「川辺川ダム」の概要を参照ください。
- ダム事業そのものに対する賛否のページへのリンク