ザ・フーとして
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1965年、ザ・フー名義での1stシングル、「アイ・キャント・エクスプレイン」が全英8位という好調なスタートを切るが、バンド内ではドラッグの使用をめぐり、ロジャー・ダルトリーと他の3人の間に深刻な対立が起こっていた。緊張の糸は9月のヨーロッパツアー中についに切れた。ダルトリーはドラッグでハイになったムーンに激怒し、彼の錠剤を全てトイレに流してしまった。ムーンはタンバリンを武器にダルトリーに襲い掛かるが、ダルトリーに殴り返され気絶してしまう。タウンゼント、エントウィッスル、ムーンの3人は全員一致でダルトリーの解雇を決断するが、ダルトリーの謝罪とマネージャーのキット・ランバートの説得により、何とか元の鞘に収まった。65年には「マイ・ジェネレーション」でもドラムをプレイした。同曲はパンクのルーツの1曲として記録されている。 だがバンドの内紛はこれで収まった訳ではなかった。1966年になると今度はムーンが脱退を考えるようになる。2月、彼はちょうど前任のドラマーが脱退したばかりのアニマルズへの加入を目論んでいた。同年5月、ジェフ・ベックに招かれセッションに参加。他のメンバーはジミー・ペイジ(ギター)、ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース)、ニッキー・ホプキンス(ピアノ)。ムーンはこのバンドをレッド・ツェッペリンと命名。このセッションで「ベックス・ボレロ」を録音した。これがムーンにとってプロデビュー後初のザ・フー以外での仕事となったが、タウンゼントはこのセッションについて「あれは政治的な動きだった。キースはこうすることで俺達にザ・フーに戻って欲しいと言わせようとしてたのさ」と語っている。なお「ベックス・ボレロ」は、ベックの1stソロシングル「ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング」のB面として発表され、後にベックの1stソロアルバム『トゥルース』に収録された。 このセッションから間もない66年5月20日、ライブに遅刻して来たエントウィッスルとムーンの代わりに、ダルトリーとタウンゼントが別のベーシストとドラマーを入れて勝手にライブを始めていたことに二人が激怒。大喧嘩の末に足を3針縫う怪我を負ったムーンは、その場にいた記者たちにエントウィッスルと共にザ・フー脱退を宣言した。宣言通り、ムーンは1週間ほどライブをボイコットしたが、25日までには仲直りし、ムーンは脱退を取り下げた。またこの年の3月、17歳のキム・ケリガンと結婚、7月には娘のアマンダ・ジェーンが生まれている。この時期、「恋のピンチ・ヒッター」「マジック・アイ」「ボリス・ザ・スパイダー」などの代表曲に演奏で参加した。ザ・フーは、モンタレーやウッド・ストック などのロック・フェスティバルに積極的に参加し、世界のロック・ファンに知られるようになった。キースの豪快なドラミングは、見る者に強烈な印象を与えた。 1970年1月、あるパーティの帰りに若者の集団に囲まれ、ムーンの乗る車が襲撃を受ける。彼の運転手だったコーネリアス・ボランドが道を空けさせようと車から降りたところを、ムーンが誤って車を発進させ、ボランドを轢いて死なせてしまう。ムーンは謹慎の身となるが、2月に裁判所でボランドの死は事故と断定され、無罪となった。なお、当時ムーンは飲酒した上に無免許であったが、これについても情状酌量により刑罰は与えられなかった。だがこの事件はムーンに暗い影を落とし、以後彼の行動はさらに厄介なものになっていった。70年のザ・フーの「サマー・タイム・ブルース」でもキースは秀逸なドラミングを披露し、彼らの代表曲となった。同曲はエディ・コクランの曲をカバーしたものである。 1971年、フランク・ザッパの映画『200モーテルズ』に出演。後に本格的に俳優としても活動するようになるダルトリーよりも先にムーンは俳優デビューを果たした。翌1972年には、ザ・フーのロック・オペラ・アルバム『トミー』の舞台公演で、トミーの叔父で変態のアーニーを演じる。1975年にも映画版『トミー』で同じくアーニーを演じた。 1973年、妻のキムが娘を連れて家を出て行った後、ムーンはさらに自暴自棄になっていく。同年11月のロサンゼルスのコンサートで、本番前に酒に動物用の鎮静剤を混ぜて飲み、本番中に倒れてしまう。この時のライブは観客からドラムが叩ける者を募ってステージに上げ、結局最後までプレイさせた。同年12月にはホテルを破壊し、タウンゼントやエントウィッスルを含めたバンド関係者16人と共に牢屋に入れられた(ダルトリーはこの事件には関わっていない)。 1974年3月、イギリスを離れロサンゼルス郊外のマリヴに移住。ジョン・レノンやハリー・ニルソンと毎日のように飲み歩くようになる。同年に発表されたレノンがプロデュースしたニルソンの『プシー・キャッツ』にドラマーとして参加している。この二人に影響され、ザ・フーの中で唯一ソロ作品を発表していなかったムーンもついにソロアルバムの製作を決める。 1975年3月にリリースされた、ムーン唯一のソロアルバム『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』は、自らがボーカルをとり、さらにリンゴ・スターやジョー・ウォルシュ等豪華ゲストも参加した。制作費には200,000ドルも費やされたものの、アルバムはチャートインを果たせず、制作費を回収するには至らなかった。ムーンはこれに懲りずに同年9月、周囲の反対を押し切って2枚目のソロアルバムのためのレコーディングセッションを行う。アルバムは遂に完成しなかったが、この時に録音された楽曲は、後に『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』がCD化される際にボーナストラックとして収録された。 1976年1月、アルコールの禁断症状を起こし一時意識不明に陥る。同年8月にはマイアミで致死量に至るほどの飲酒をし、8日間の入院を余儀なくされている。その際に医師から「飲酒を控えなければ3か月以内に死ぬだろう」と警告された。10月、スウェーデン人モデルのアネット・ウォルター=ラックスと再婚するが、ムーンの生活が改まることはなく、健康状態は悪化の一途をたどり、ザ・フーはライブ活動から遠ざかっていった。
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