サンティアゴ巡礼とは? わかりやすく解説

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サンティアゴ巡礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 18:58 UTC 版)

サンティアゴ・デ・コンポステーラ」の記事における「サンティアゴ巡礼」の解説

この地に聖ヤコブ崇敬定着したのは西ゴート王国末期7世紀末に遡り以来 ローマエルサレム並んでカトリック教会で最も人気のある巡礼地であり世界中から巡礼者絶えない巡礼街道では巡礼者は、その証明帆立貝の殻を荷物ぶら下げる。途中教会などが宿泊提供してくれる。最後コースは、地面古切れなどを敷きながら膝だけで歩いていく熱心な信者も多い。 聖ヤコブはガリラヤ湖漁師で、弟のヨハネと共にイエス・キリスト従ったヒスパニアにおいて布教活動行いエルサレム帰還後、ヘロデ・アグリッパ1世によって断首され十二使徒のうち最初殉教者となった。その遺体弟子2人が石の船に乗せ海を果てしなくさまよった末に本市付近に辿り着き埋葬したのが紀元1世紀半のことであった。これが聖地起源であるといわれている。そうしてこの墓が再発見されたのは、伝説では、9世紀に星に導かれ羊飼いがこの地で聖ヤコブの墓を発見し遺骨祭った聖堂建てられ、そこに教会作られた。これがサンティアゴ・デ・コンポステーラ町の起源とされ、町の名はラテン語の「Campus stellae」(星の野)あるいは「Compositum」(墓場にちなん名付けられと言われるが、これらは民間語源の域を出ないのであるガリシアは非常に地名が多いため、地名研究ガリシア語学の重要な研究分野になっており、それによると、Compostela語源は、ラテン語のCOMPOSĬTA示小辞ĔLLA付いたものであり、意味は「良い場所」で、つまり、「サンティアゴにとって良い場所、ふさわしい場所」ということである。旧市街世界遺産登録されており、7月25日サンティアゴ(聖ヤコブ)の日で、(この重なり6年5年6年11年という周期で起こる。カトリック教会ではこれらの年を「聖年」、「聖ヤコブの年」と定めている)。旧市街中心に祭り盛大に行われる。またこの日はガリシアの日(ガリシア語版)でもある。 巡礼盛んだった中世信者強く惹きつけたのは聖遺物呼ばれるイエス聖人まつわる遺品であった聖遺物には奇跡起こす力があると信じられた。聖ヤコブを祝うミサ重さ90キログラム香炉人々清める巡礼者辿ってきた長い道のりを振り返り聖地導いてくれた神に感謝する。 またサンティアゴ・デ・コンポステーラ大学スペイン有数大学のひとつであり、ガリシア地方で最も伝統ある大学である。キャンパスサンティアゴ旧市街挟み南と北にあるほか、ルーゴにもある。学生数はおよそ3万人で、これらの学生多くは市の人口9万人には含まれていないサンティアゴ宗教都市であり、観光都市でもあり、また学生の街で、州行政の中心でもあるという異なった顔を持つ街である。ここへの巡礼テーマにしつつ神の存在歴史時間軸行き来しながら描いたフランス映画で、「銀河 (La Voie lactée)」(フランス・イタリア合作で、ルイス・ブニュエル監督1968年)というものがある。「銀河」は、このサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道のことを銀河天の川)に例えたのである。 なお、ガリシア地方では花崗岩産出しこの花崗岩をサンティアゴでは道路舗装材などとして利用してきた。

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サンティアゴ巡礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 14:59 UTC 版)

ル・ピュイ=アン=ヴレ」の記事における「サンティアゴ巡礼」の解説

ル・ピュイは、現代サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路1つ、ポディエンシス街道出発点である。ル・ピュイ発って次の交差地点は、ヴァルプレル=ピュイサン・クリストフ教会である。 カリクストゥス写本巡礼案内記において、ル・ピュイについて、通過地点としてその名が与えられていることを除けば、何も言及されていない通常言われているように、出発点であることは示されていない。エメリー・ピコー(fr12世紀ポワトヴァン聖職者)は『ブルゴーニュ人とドイツ人』においてこう話している。より一般的には、ヨーロッパ東側からやってきたサンティアゴ目指す巡礼者たちは、ポディエンシス街道の名を与えた偉大な聖母マリア聖地から巡礼の旅始めるのだと。 最初施療所は、大聖堂反対側に建てられオテル・デューで、1140年代からそこにあった創設され当時公文書存在していない。しかしル・ピュイ重要な巡礼中心地であるので、本来の目的聖母崇敬する巡礼者たちを受け入れることだった。サンティアゴ巡礼者のために創設されたことに言及する公文書はないが、扉は彼らのために開かれていた。多く寄進が、オテル・デュー収入として役立てられた。その一方寄進者はフランス王国から外国に至るまで広がっていた。カタルーニャリポイには寄進箱が保存されており、そこには『フランスル・ピュイ聖母』(Nostra Senyora del Puig de França)と記されているのである証拠集めたによれば20世紀初頭にまだ寄進箱は使われていた。 司教ベルトラン・ド・シャランコンは、サント・クレール教会にて巡礼者用のメダル製造販売することを許可した。このホタテ貝意匠は、オテル・デュー亡くなった人を埋葬したクローゼル墓地で見られる16世紀終わりサンティアゴへの巡礼意味し貝殻装飾された、巡礼メダル作る原盤が見つかっている。サント・クレール教会は、16世紀創設されサン・ジャック兄弟会の本部があった。同時代に、ル・ピュイ住民のサンティアゴ巡礼への証言がある。『1591年9月16日、私はガリシアサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かうためこの町を発ち、サンタンドレの日の前夜、この町へ戻ってきた。』 ル・ピュイにはサン・ジャック施療院もあった。1253年遺言書にて初め言及されている。残念なことに、どのように施療院運営されていたか全くわかっていない。施療院は町の城壁外、サン・ジャック通りサン・ジャック門のそばにあった施療院位置は、マルジュリド地方からル・ピュイ到達した者たちを収容するためであったことを示唆している。

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