サンティアゴ巡礼
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「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」の記事における「サンティアゴ巡礼」の解説
この地に聖ヤコブ崇敬が定着したのは西ゴート王国末期の7世紀末に遡り、以来 ローマ、エルサレムと並んでカトリック教会で最も人気のある巡礼地であり世界中から巡礼者が絶えない。巡礼の街道では巡礼者は、その証明に帆立貝の殻を荷物にぶら下げる。途中、教会などが宿泊を提供してくれる。最後のコースは、地面に古切れなどを敷きながら膝だけで歩いていく熱心な信者も多い。 聖ヤコブはガリラヤ湖の漁師で、弟のヨハネと共にイエス・キリストに従った。ヒスパニアにおいて布教活動を行い、エルサレムに帰還後、ヘロデ・アグリッパ1世によって断首され十二使徒のうち最初の殉教者となった。その遺体を弟子2人が石の船に乗せ海を果てしなくさまよった末に本市付近に辿り着き、埋葬したのが紀元1世紀半のことであった。これが聖地の起源であるといわれている。そうしてこの墓が再発見されたのは、伝説では、9世紀に星に導かれた羊飼いがこの地で聖ヤコブの墓を発見し、遺骨を祭った聖堂が建てられ、そこに教会が作られた。これがサンティアゴ・デ・コンポステーラの町の起源とされ、町の名はラテン語の「Campus stellae」(星の野)あるいは「Compositum」(墓場)にちなんで名付けられたと言われるが、これらは民間語源の域を出ないものである。ガリシアは非常に地名が多いため、地名研究がガリシア語学の重要な研究分野になっており、それによると、Compostelaの語源は、ラテン語のCOMPOSĬTAに示小辞ĔLLAが付いたものであり、意味は「良い場所」で、つまり、「サンティアゴにとって良い場所、ふさわしい場所」ということである。旧市街は世界遺産に登録されており、7月25日はサンティアゴ(聖ヤコブ)の日で、(この重なりは6年、5年、6年、11年という周期で起こる。カトリック教会ではこれらの年を「聖年」、「聖ヤコブの年」と定めている)。旧市街を中心に祭りが盛大に行われる。またこの日はガリシアの日(ガリシア語版)でもある。 巡礼が盛んだった中世、信者を強く惹きつけたのは聖遺物と呼ばれるイエスや聖人にまつわる遺品であった。聖遺物には奇跡を起こす力があると信じられた。聖ヤコブを祝うミサ。重さ90キログラムの香炉が人々を清める。巡礼者は辿ってきた長い道のりを振り返り、聖地に導いてくれた神に感謝する。 またサンティアゴ・デ・コンポステーラ大学はスペイン有数の大学のひとつであり、ガリシア地方で最も伝統ある大学である。キャンパスはサンティアゴ旧市街を挟み南と北にあるほか、ルーゴにもある。学生数はおよそ3万人で、これらの学生の多くは市の人口9万人には含まれていない。サンティアゴは宗教都市であり、観光都市でもあり、また学生の街で、州行政の中心でもあるという異なった顔を持つ街である。ここへの巡礼をテーマにしつつ神の存在を歴史の時間軸を行き来しながら描いたフランス映画で、「銀河 (La Voie lactée)」(フランス・イタリア合作で、ルイス・ブニュエル監督、1968年)というものがある。「銀河」は、このサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道のことを銀河(天の川)に例えたものである。 なお、ガリシア地方では花崗岩が産出し、この花崗岩をサンティアゴでは道路の舗装材などとして利用してきた。
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サンティアゴ巡礼
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「ル・ピュイ=アン=ヴレ」の記事における「サンティアゴ巡礼」の解説
ル・ピュイは、現代のサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の1つ、ポディエンシス街道の出発点である。ル・ピュイを発って次の交差地点は、ヴァル=プレ=ル=ピュイのサン・クリストフ教会である。 カリクストゥス写本の巡礼案内記において、ル・ピュイについて、通過地点としてその名が与えられていることを除けば、何も言及されていない。通常言われているように、出発点であることは示されていない。エメリー・ピコー(fr、12世紀ポワトヴァンの聖職者)は『ブルゴーニュ人とドイツ人』においてこう話している。より一般的には、ヨーロッパの東側からやってきたサンティアゴを目指す巡礼者たちは、ポディエンシス街道の名を与えた偉大なる聖母マリアの聖地から巡礼の旅を始めるのだと。 最初の施療所は、大聖堂の反対側に建てられたオテル・デューで、1140年代からそこにあった。創設された当時の公文書は存在していない。しかしル・ピュイは重要な巡礼の中心地であるので、本来の目的は聖母を崇敬する巡礼者たちを受け入れることだった。サンティアゴ巡礼者のために創設されたことに言及する公文書はないが、扉は彼らのために開かれていた。多くの寄進が、オテル・デューの収入として役立てられた。その一方寄進者はフランス王国から外国に至るまで広がっていた。カタルーニャのリポイには寄進箱が保存されており、そこには『フランス、ル・ピュイの聖母』(Nostra Senyora del Puig de França)と記されているのである。証拠を集めた者によれば、20世紀初頭にまだ寄進箱は使われていた。 司教ベルトラン・ド・シャランコンは、サント・クレール教会にて巡礼者用のメダルを製造販売することを許可した。このホタテ貝の意匠は、オテル・デューで亡くなった人を埋葬したクローゼル墓地でも見られる。16世紀終わり、サンティアゴへの巡礼を意味し貝殻で装飾された、巡礼のメダルを作る原盤が見つかっている。サント・クレール教会は、16世紀に創設されたサン・ジャック兄弟会の本部があった。同時代に、ル・ピュイ住民のサンティアゴ巡礼への証言がある。『1591年9月16日、私はガリシアのサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かうためこの町を発ち、サンタンドレの日の前夜、この町へ戻ってきた。』 ル・ピュイにはサン・ジャック施療院もあった。1253年の遺言書にて初めて言及されている。残念なことに、どのように施療院が運営されていたか全くわかっていない。施療院は町の城壁外、サン・ジャック通りとサン・ジャック門のそばにあった。施療院の位置は、マルジュリド地方からル・ピュイに到達した者たちを収容するためであったことを示唆している。
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