サンティアゴ・ベルナベウ会長時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 17:09 UTC 版)
「レアル・マドリード」の記事における「サンティアゴ・ベルナベウ会長時代」の解説
1943年にサンティアゴ・ベルナベウが会長に就任。1944年にはスペイン内戦の影響で廃墟と化したエスタディオ・チャマルティンに代わるスタジアムであるヌエボ・エスタディオ・チャマルティンを起工した。1945-46シーズンにはコパ・デル・レイ優勝を果たした。1946年にはルイス・モロウニーを獲得し、1946-47シーズンはコパ・デル・レイ2連覇を達成。1947-48シーズンにはコパ・エバ・ドゥアルテ優勝を果たす。1948年にはミゲル・ムニョス、パイーニョを、1949年にはフアン・アロンソを獲得。 1951年にはADプルス・ウルトラからホセ・マリア・サラガを昇格させた。1952年にはラ・ペケーニャ・コパ・デル・ムンドにて優勝を達成。1953年にはアルフレッド・ディ・ステファノ、フランシスコ・ヘントを獲得し、ADプルス・ウルトラからエンリケ・マテオスを昇格させた。特にディ・ステファノの獲得はアトレティコ・マドリード、FCバルセロナ、アスレティック・ビルバオの3強だった当時のリーガ・エスパニョーラの勢力図を塗り替えた。1953-54シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を達成。1954年にはエクトル・リアル、マルキートスを獲得。1954-55シーズンはシーズン途中にホセ・ビジャロンガが監督に就任し、当時のリーグ史上最多となる勝ち点46を記録 してのリーガ・エスパニョーラ2連覇を果たす。1955年1月4日、ヌエボ・エスタディオ・チャマルティンの名称をエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウに改称した。 ドミンゲス マルキートス サンタマリア パチン ビダル サラガ カナリオ D.ソル D.ステファノ プスカシュ ヘント 1960年5月18日に行われたUEFAチャンピオンズカップ 1959-60決勝、アイントラハト・フランクフルト戦のスターティングメンバー。 1955-56シーズンはラテン・カップ優勝、さらに同シーズンから始まったUEFAチャンピオンズカップにて優勝を果たす。1956年にはレイモン・コパを獲得し、フアン・サンティステバンを下部組織から昇格させた。1956-57シーズンはラ・ペケーニャ・コパ・デル・ムンド優勝、リーガ・エスパニョーラ優勝、UEFAチャンピオンズカップ2連覇を果たした。1957年にはルイス・カルニグリアが監督に就任したほか、ホセ・サンタマリア、ロヘリオ・ドミンゲスを獲得し、1957-58シーズンはラテン・カップ優勝、リーガ・エスパニョーラ2連覇、UEFAチャンピオンズカップ3連覇を達成した。1958年にはフェレンツ・プスカシュを獲得し、1958-59シーズンはUEFAチャンピオンズカップ4連覇を果たす。1959年にはジジを獲得し、1959-60シーズンはシーズン途中にミゲル・ムニョスが監督に就任したほか、ルイス・デル・ソルを獲得。同シーズンはリーガ・エスパニョーラにおけるホームゲームで全勝を記録し、FCバルセロナと勝ち点46で並ぶも得失点差により優勝を逃すが、UEFAチャンピオンズカップでは5連覇を達成した。この5年間のUEFAチャンピオンズカップでは、合計17試合のホームゲームにおいて全て勝利を収めており、これらの実績を残した当時のチームはエポカ・ドラダと表現された。 1960年にはホセ・ビセンテ・トラインを獲得。1960-61シーズンは当時のクラブ史上最多連勝記録である公式戦15連勝を記録 したほか、当時のリーグ史上最多となる勝ち点52を記録してのリーガ・エスパニョーラ優勝を果たし、さらに同シーズンから始まったインターコンチネンタルカップにて優勝を達成。 1961年にはアントニオ・ベタンコルト、ビセンテ・ミエラを獲得。1961-62シーズンはリーガ・エスパニョーラ2連覇とコパ・デル・レイ優勝を果たし、クラブ史上初の国内タイトル2冠を達成した。1962年にはイグナシオ・ソコ、アマンシオ・アマロ、ルシアン・ミュラー、エヴァリスト・デ・マセドを獲得。1962-63シーズンはホームゲームで全勝を記録してのリーガ・エスパニョーラ3連覇を達成し、1963-64シーズンはリーガ・エスパニョーラ4連覇を達成した。1964年にはピッリ、マヌエル・サンチス・マルティネスを獲得し、ADプルス・ウルトラからラモン・グロッソを昇格させ、1964-65シーズンはリーガ・エスパニョーラ5連覇を達成した。 アラキスタイン パチン D.フェリペ ソコ サンチス ピッリ ベラスケス セレーナ アマンシオ グロッソ ヘント 1966年5月11日に行われたUEFAチャンピオンズカップ 1965-66決勝、パルチザン・ベオグラード戦のスターティングメンバー。 1965-66シーズンはUEFAチャンピオンズカップ優勝を果たした。1966-67シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を達成。1967年にはミゲル・アンヘルを獲得し、1967-68シーズンはリーガ・エスパニョーラ2連覇を達成。1968-69シーズンはリーガ・エスパニョーラ3連覇を達成した。1969年にはグレゴリオ・ベニトらを獲得し、1969-70シーズンはコパ・デル・レイ優勝を果たした。1960年代は8回のリーガ・エスパニョーラ優勝などを記録し、これらの実績を残した当時のチームはイエイエ・マドリードと称された。 1970年にはADプルス・ウルトラからビセンテ・デル・ボスケ、マラニョンを昇格させた。1971年にはサンティリャーナ、マリアノ・ガルシア・レモンを獲得し、1971-72シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を果たす。しかし、1972-73シーズンは無冠に終わる。1973年にはギュンター・ネッツァーを獲得し、カスティージャCFからホセ・アントニオ・カマーチョを昇格させた。1973-74シーズンはシーズン途中で14季にわたって監督を務めたムニョスを解任してルイス・モロウニーが監督に就任し、コパ・デル・レイ優勝を達成した。 1974-75シーズンからはミリャン・ミリャニッチが監督に就任し、1974年にはパウル・ブライトナーを獲得。1974-75シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝とコパ・デル・レイ2連覇の国内タイトル2冠を達成し、1975-76シーズンはリーガ・エスパニョーラ2連覇を達成。1976年にはフアニートを獲得するも、1976-77シーズンは無冠に終わり、ミリャニッチは解任された。1977年にはウリ・シュティーリケを獲得し、1977-78シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を達成した。なお、1978年6月2日にベルナベウは死去した。
※この「サンティアゴ・ベルナベウ会長時代」の解説は、「レアル・マドリード」の解説の一部です。
「サンティアゴ・ベルナベウ会長時代」を含む「レアル・マドリード」の記事については、「レアル・マドリード」の概要を参照ください。
- サンティアゴ・ベルナベウ会長時代のページへのリンク