イングランドへの輸出拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 04:09 UTC 版)
「シェリー (ワイン)」の記事における「イングランドへの輸出拡大」の解説
1154年にヘンリー2世がイングランド王に即位してプランタジネット朝が成立し、妻であるアリエノール・ダキテーヌの相続地アキテーヌ公領で生産されたワインがイギリス貴族の間で飲まれるようになった。12世紀にはヘレスのワインもイングランドに輸出されていたとする説がある。1246年にはカスティーリャ王アルフォンソ10世がアラブ人からヘレスを奪還するとワイン生産が再興し、アルフォンソ10世はブドウ栽培やワイン生産を奨励した。13世紀以後には収穫年ごとのシェリーが作られるようになり、ヴィンテージの概念が確立した。しかし、アンダルシア地方はフランス以北の国々に比べると収穫年ごとのブドウの品質・量が安定していたため、良いヴィンテージの年を選りすぐる発想は強くはなかった。 1338年にイングランドとフランスの間で百年戦争が勃発し、フランスからイングランドへの輸出が困難になると、イングランド人はキリスト教徒がアラブ人から奪還していたイベリア半島のヘレスに注目した。14世紀前半のエドワード3世の時代にヘレス産ワインがイングランドに輸出されるようになったとされており、ヘレスのワイン産業はイングランドへの輸出を通じて発展した。1431年から1489年にはカスティーリャ産ワインの輸出に制限が加えられたが、イングランドにとっての代替地であったマデイラ諸島産ワインの生産量は多くなかったため、ヘレス産ワインの輸出解禁が待ちわびられた。 Clip スペイン産ワインが人気を博したエリザベス朝イングランド 1458年にはヘンリー7世が航海条例を制定し、イングランドに輸入されるワインの運搬がイングランド船籍のみに許されることとなった。この条例によっていくつかの産物は現地語ではなく英語の名称に変更され、16世紀にはヘレス産ワインが「サック」と呼ばれるようになった。「サック」という名称はウィリアム・シェイクスピアの作品中にも登場する。本来の呼び名であるSherishはまずSherriesに、やがてSherryと表記されるようになり、「サック」、「シェリー」、「シェリー・サック」という幾通りもの呼び名が混在した。 15世紀末に新大陸が発見されてからは、ヘレス産ワインが新大陸にも盛んに輸出された。また、フェルディナンド・マゼランはヘレス産ワインを買い込んで世界周航に旅立ったため、初めて世界一周を果たしたワインはヘレス産ワインであるとされている。 ヘンリー8世はアルカラ・デ・エナーレス出身のキャサリンを王妃としていたが、キャサリンと縁を切ってローマ・カトリック教会からイングランド国教会を分離したため、スペイン側はスペインに住むイングランド人ワイン商人を異端者扱いし、宗教裁判や投獄・火刑などの報復を行った。キャサリンの娘メアリーがフェリペ2世と結婚して和平が回復されたが、1588年のアルマダの海戦ではイングランドのフランシス・ドレークがスペイン無敵艦隊を破り、強奪した2,900樽のヘレス産ワインがイングランドに持ち帰られた。このヘレス産ワインはイングランドの社交界で人気を得て、徐々にシェリーという名称が定着していった。 ヘレス産ワインがもっとも人気を誇っていたのは16世紀後半から17世紀前半、エリザベス朝からジェームズ1世の治世である。初めてメーカー名やブランド名が登場したのは17世紀のことであり、J・M・リベロ社の前身である「CZ」が1653年の記録に残っている。その後も輸入産物の英語化は進行し、17世紀末から18世紀初頭にはシェリーという呼び名が定着した。 スティル・ワインと酒精強化ワインを分けることなく、ヘレス産ワインはすべてビノ・デ・ヘレス(ヘレスのワイン)と呼ばれるため、シェリー固有の特徴である酒精強化がいつ頃から始まったのかは定かでない。アラブ人がアルコールを蒸留する技術を伝えた8世紀以降であるとする説、ジェフリー・チョーサーが「ヘレス地域のワインは普通のワインよりもアルコール度数が高い」と書いた14世紀頃であるとする説、シェイクスピアがシェリーは「頭にのぼる」「体を熱くする」と書いた1600年頃であるとする説などがあるが、18世紀以前であるのは間違いないとされている。 18世紀初頭のスペイン継承戦争(1701年-1719年)勃発後にはポルトガルがイングランドとメスエン条約を結び、イングランドでポート・ワインやマデイラ・ワインが流行の兆しを見せた。ヘレス産ワインは不利な状況に立たされたが、毎年約8,000トンが出荷され、1728年頃までは出荷量が年あたり40トンずつ増加した。1738年には約9,500トンの需要があったが、1739年には英西戦争が勃発して輸出量が1/3にまで減り、さらにオーストリア継承戦争(1741年-1748年)では輸出量がその半分にまで落ち込んだ。1748年の戦争終結後には需要が回復に向かったが、1750年代から1780年代後半のヘレス産ワインの需要は1738年の1/3程度の3,000トンから3,500トンで推移した。 17世紀から18世紀には国外からも多くの業者がシェリーの生産や販売に関わるようになった。需要の増加によって、別産地のワインがヘレス産ワインとして売られるようになったため、18世紀には同業者組合が発足して価格や規則の統制に当たった。しかし、この同業者組合は公平さを欠いた取り組みを行い、多くの業者は他産地に移っていった。シェリーの輸出量は激減し、同業者組合に対する訴訟なども行われたため、この同業者組合は1834年に解散した。18世紀末から19世紀には、スイス人のペドロ・ドメック(ドメック社)、フランス人のオーリー、アイルランド人のパトリック・ガルベイ(ガルベイ社)、カディスの貿易商ゴンサレス・アンヘルなどが活躍している。 酒精強化ワインの例 シェリー ポート・ワイン マデイラ・ワイン
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