イングランドへの亡命、陰謀と処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 10:04 UTC 版)
「メアリー (スコットランド女王)」の記事における「イングランドへの亡命、陰謀と処刑」の解説
1568年5月、ロッホ・リーヴン城を脱走したメアリーは6千人の兵を集めて軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス1世の元に逃れた。メアリーはイングランド各地を転々としたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い、引退した老婦人のような静かな生活を送ることを許された。 しかし、たびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、またエリザベス廃位の陰謀に関係した。1570年にはリドルフィ事件(英語版)(ロベルト・ディ・リドルフィ(英語版)が企てた事件)、1586年のバビントン事件(英語版)(カトリックのアンソニー・バビントン(英語版)がエリザベスの暗殺を狙った事件)などである。バビントン事件の裁判ではメアリーが関与した証拠が提示され、有罪・死刑を言い渡された。 エリザベス1世は死刑執行書への署名を渋る様子を見せたが、結局1587年2月8日、フォザリンゲイ城(英語版)のグレートホールでメアリーは処刑された。この事態を受けて、スペイン王フェリペ2世は無敵艦隊をイングランドへ派遣し、アルマダの海戦(1588年)に繋がった。
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