イングランドの長老教会
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「長老派教会」の記事における「イングランドの長老教会」の解説
トマス・クランマー(1489年 - 1556年)が作成した『聖公会祈祷書』(1549年)と、クランマーがジョン・ノックスらの助言を受けエドワード6世(1537年 - 1553年)が署名した42箇条はカルヴァン主義の傾向があった。病弱なエドワード6世が若くして死に、次に王位を継承しようとしたプロテスタントのジェーン・グレイが処刑され、メアリー1世(1516年 - 1558年)が女王となった。カトリック信者のメアリー1世はプロテスタントを迫害した。火刑台が置かれたスミスフィールドの地は、殉教と結びついている。メアリー1世はカトリック信仰によって、プロテスタントの男女、子どもを火あぶりで殺し、「ブラッディ・メアリー」(Bloody Mary, 血塗られたメアリー)と呼ばれた。トマス・クランマー、ヒュー・ラチマー、ニコラス・リドリーは殉教者として有名である。ラチマーは1555年の処刑の時「火あぶりは英国に火をともし、その火は神の恵みによって永遠に消されない」と言った。信仰の火は受け継がれた。 トマス・カートライト(1535年 - 1603年)は聖書の究極的権威を主張し、1570年の「使徒行伝」(使徒の働き)の講義で、イングランド国教会の監督政治に反対し、長老制を唱えた。カートライトはジョン・ホイットギフトにより教授を解任され、1572年にはフェローの身分も奪われて、大学から追放される。ジュネーヴに渡り、1585年に帰国してからは長老教会建設の地下活動を行い、1590年に投獄された。カートライトとウォルター・トラヴァーは共著『戒規論』を記し、イングランドの長老派はカートライトによって生まれたと言われる。 1640年、第二次主教戦争に敗北した国王がリポン条約の資金調達のために召集した議会はピューリタンが主導権をもち、長期議会と呼ばれた。議会の依嘱によりウェストミンスター会議はウェストミンスター信仰告白を作成し、これは1648年にイングランド議会で採択された。ただし議会はイングランド内戦を経て長老派と独立派に分裂、両者は戦争指導や終結などで衝突が絶えなかった。
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