イングランドへの帰還: 1886年–1898年
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「E・W・ホーナング」の記事における「イングランドへの帰還: 1886年–1898年」の解説
ホーナングは1886年2月にイングランドに戻り、その年の11月に父が死んだ。父の石炭と鉄の事業は比較的繁盛していたが、困難な時代を経て、その死の時までに財政的に厳しい状況になっていた。ホーナングはロンドンでジャーナリストおよび物語作家としての仕事を見つけ、筆名で作品を出版することが多かった。ただし、1887年に自分の名前で最初の作品である『5のストローク』を雑誌「ベルグラビア」に投稿した。ホーナングがジャーナリストとして働いたのは、切り裂きジャックや連続5件の殺人が起きた時代であり、ロンドンで都市型犯罪が増加していた背景に対して出てきたものだった。ホーナングが犯罪の挙動に興味を広げたのはこの頃だった。 1890年7月から11月、ホーナングはオーストラリアから持って帰った小説の原稿に手を入れ、『藪から現れた花嫁』を雑誌「コーンヒル・マガジン」に5章で掲載した。この作品は同年、初めての単行本としても出版された。ローランドが「毅然として上品なコメディ」と表現したこの小説は、オーストラリアに関する知識を背景に使い、オーストラリアの花嫁がイギリスの社交的振る舞いを検査する工夫がなされていた。この小説は批評家から良く受け入れられた。1891年、ホーナングはクリケットクラブのアイドラーズのメンバーになった。そのメンバーにはアーサー・コナン・ドイル、ロバート・バー、ジェローム・K・ジェロームが入っており、ストランドのクラブだった。 ホーナングはドイルの妹であるコンスタンス・"コニー"・エメー・モニカ・ドイル(1868年-1924年)とポルトガルを旅したときに出逢っており、知り合いになっていた。コニーについては、ドイルの伝記作者アンドリュー・ライセットが「ラファエロ前派の概観...ドイルの娘たちの中で最も求められた人」と魅力的な存在だったと述べている。1892年12月、ホーナング、ドイル、ジェロームがスコットランドヤードの「黒の博物館」を訪れたときまでに、ホーナングとコニーが婚約していた。1893年、ホーナングは2作目の小説『ちっぽけなラットレル』を「C.A.M.D に」献呈した。二人は1893年9月に結婚したが、ドイルは結婚式に出席せず、ホーナングとドイルの関係はこじれることがあった。1895年、ホーナング夫妻には一人息子のアーサー・オスカーが生まれた。そのファーストネームはドイルから採っており、ドールはアーサーの名付け親になった。ミドルネームはおそらくドイルとホーナング双方の友人であるオスカー・ワイルドから採られており、通常呼びかけに使われたのはこのミドルネームの方だった。1894年、ドイルとホーナングは、摂政皇太子(ジョージ4世)時代のボクシングを主題に、俳優ヘンリー・アーヴィングのための戯曲作りを始めた、ドイルは当初熱心であり、手付金としてホーナングに50ポンドを払ったが、第一幕が書かれた後に身を退き、この作品が完成されることは無かった。 ホーナングの2作目『ちっぽけなラットレル』は第1作目と同様にオーストラリアを背景にしており、やはりオーストラリアの女性が文化的に異なる環境にあるという設定を使った。オーストラリア人というテーマはその後の4作品『タルーンバのボス』(1894年)、『招かれざる客』(1894年)、『イラリーの犯罪者』(1896年)、『悪漢の3月』(1896年)にも共通している。その中の4作目でオーストラリアの囚人輸送システムについて書き、犯罪挙動の背後にある動機に魅力を感じるようになった証拠を示し、事件の犠牲者として犯罪の英雄に対する念入りな同調心を見せていた。一方『イラリーの犯罪者』はオックスフォードで教育を受けたオーストラリア人怪盗、スティンガリーという人物を導入し、ホーナングの伝記作者スティーブン・ナイトに拠れば、肯定的な犯罪の人物に「伝統的な反応への疑いを投げて」いる。
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