アムトラックとコンレール - 政府による関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)
「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「アムトラックとコンレール - 政府による関与」の解説
1960年代を通じてアメリカの鉄道の貨物輸送量は、全交通機関を合計した貨物輸送量の伸びに比べれば緩やかであるが、増加を続けていた。1961年から1970年の間に、一級鉄道の貨物輸送量はトン数で約20パーセント、トンマイル数で約35パーセント増加した。しかし地域によって大きな差異があり、トンマイル数の増加は東部の鉄道では約22パーセントであったのに対して西部の鉄道では約37パーセントであり、南部の鉄道にいたっては約59パーセントであった。これは産業構造の変化によって鉄道が得意とする輸送の荷主となる鉱工業分野で、生産の中心が東部から南部や西部へ移っていったことが要因であった。ことに長く東部の大鉄道会社としてアメリカの鉄道をリードしてきたペンシルバニア鉄道とニューヨーク・セントラル鉄道は、両社合計で約15パーセントのトンマイル数の増加に留まるなど、大きな影響を受けていた。 こうした問題を受けて、1968年に当時最大の鉄道会社の合併が行われた。長年ライバルとして激しい競争を繰り広げてきたペンシルバニア鉄道とニューヨーク・セントラル鉄道が合併して、ペン・セントラル鉄道を発足させたのである。1969年には、ニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道が旅客営業の廃止を州際通商委員会に対して求めたが、ペン・セントラル鉄道へ合併して継続するように指示され、同社もペン・セントラル鉄道に加わった。しかし、この合併はうまくいかなかった。当時アメリカ国内最大の約21,000マイル(約33,600 km)に及ぶ路線網を抱え、合併で年間8000万ドルの経費削減を見込んでいたが、長い間激しい競争を繰り広げてきた両社の従業員は簡単には打ち解けず、経営層でさえ内紛を繰り返して、社内は分断された状態が続いた。また両社の信号システムには大きな差異があり、簡単には統合することができなかった。サービスの品質は急速に劣化を続け、1970年には平均すると1日22回の脱線事故を起こしているという有様であった。そして、かつて輸送の大宗を占めていた石炭の産地が移動して輸送需要を失い、またアメリカにおける旅客輸送の多くを担っていたことからそれに伴う欠損も多かったことなどが、ペン・セントラル鉄道の収支に大きな悪影響を与えた。こうしてペン・セントラル鉄道は1970年6月21日に破綻した。 アメリカ合衆国北東部の大鉄道会社が破綻したことを受けて、鉄道の衰退への国民的関心が集まることになった。このままでは北東部の鉄道網が消滅してしまうことになりかねず、議会では国有化の議論が始まった。鉄道網を引き継ぐ組織は、ペン・セントラル鉄道が破綻する原因となった重荷を負わずに済むようにしなければならないと考えられた。検討の末、1974年1月に合衆国議会は統合鉄道公社 (Consolidated Rail Corporation) 通称コンレールを発足させる1973年鉄道再編成法(Regional Rail Reorganization Act、通称3R法)を制定した。またコンレールの路線網の検討を行うために合衆国鉄道再建事業団(英語版)が設立された。合衆国鉄道再建事業団は重複した路線の廃止を決定し、またリーハイ・バレー鉄道やセントラル・レールロード・オブ・ニュージャージー、レディング鉄道など北東部でこの時期に次々に破綻した鉄道会社もコンレールに加えることを決めた。1976年4月1日にコンレールが公式に発足し、連邦政府はそのために21億ドルを支出した。しかしコンレールを運営し続けるためにはさらに5億ドルを当面の経費として必要としていた。 ペン・セントラル鉄道に限らずどの会社でも旅客営業は不採算なものとなっていたため、1970年鉄道旅客輸送法 (Rail Passenger Service Act of 1970) により、民間の鉄道会社から旅客営業を引き継いで全米鉄道旅客公社 (National Rail Passenger Corporation) 通称アムトラックが発足することになった。アムトラックは連邦政府から4000万ドル、移管元の鉄道会社から1億9000万ドルの出資を受けて発足することになったが、鉄道会社の出資分の大半は現金ではなく鉄道車両などによる現物出資であった。当初の列車本数は219本、営業マイルは約23,000マイル(約36,800 km)、所有車両は機関車326両と客車1,190両で、1971年5月1日に営業を開始した。アムトラックにこの時点で旅客営業を移管したのは、バーリントン・ノーザン鉄道、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道、チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道、ガルフ・モービル・アンド・オハイオ鉄道(英語版)、イリノイ・セントラル鉄道、ルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道(英語版)、ミルウォーキー鉄道、ミズーリ・パシフィック鉄道(英語版)、ペン・セントラル鉄道、リッチモンド・フレデリクスバーグ・アンド・ポトマック鉄道、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道、シーボード・コースト・ライン鉄道、サザン・パシフィック鉄道、ユニオン・パシフィック鉄道であった。デンバー・リオグランデ・アンド・ウェスタン鉄道はその後も1983年まで独自に旅客列車の運行を行った。 アムトラックが引き継いだ機関車や客車は老朽化しており、発足後から次第に新型車両への更新を進めていった。西部へ運行される列車には、2階建構造のスーパーライナーの導入が進められた。一方東部の特に北東回廊線に関しては車両限界が狭いためスーパーライナーの入線は不可能で、しばらくは古い形式の車両で運行を続けざるを得なかった。また、客車で使用するサービス電源として機関車に搭載されたディーゼル発電機で給電するヘッド・エンド・パワー(英語版)方式への切り替えを1983年までに完了させた。ペンシルバニア鉄道から引き継いだ電気機関車のGG1形も、スウェーデンの設計によるAEM-7形へ置き換えられ、ディーゼル機関車はF40PH形の導入が進められた。ペンシルバニア鉄道時代に導入が計画され、ペン・セントラル鉄道において運行が開始されたメトロライナーは、アムトラックにおいても運行が引き続き拡大され、ニューヨークとワシントンD.C.を結ぶ高速電車として発展した。またそれまで複数のターミナル駅に旅客列車が分散して発着していたニューヨークとシカゴでは、ニューヨークにおいてペンシルベニア駅に、シカゴにおいてユニオン駅に運行を集約した。さらに地元の州や市は、駅の改装工事に協力した。こうした努力もあり、1972年から1980年までの間にアムトラックの輸送量は約30億人マイルから約46億人マイルへと増加した。設備更新を続ける一方でアムトラックは、かつての鉄道会社から引き継いだ列車の愛称はそのまま伝統を保った。 アムトラックは基本的に線路を所有せず、貨物鉄道専業となった民間の鉄道会社から線路を借りて旅客列車の運行を行っている。法令上はアムトラックは貨物鉄道の線路を使用する権限を与えられているが、旅客列車を運行したことによって貨物鉄道に発生した保守費用などについてはアムトラックから貨物鉄道会社に対して経費補償支払という形で線路使用料が払われている。またこれに加えて定時運行奨励金も支払っており、貨物鉄道会社にとっても重要な収入源となっている。ただしアムトラックは、1976年にコンレールからボストン - ニューヨーク - ワシントンD.C.を結ぶ北東回廊線を引き継いだ。これはアムトラックにとって数少ない自社所有の路線で、大都市の並ぶ地域を結ぶ幹線であったため重要な収入源となった。北東回廊はアムトラックの全路線距離の約40分の1にしかならないのに、1983年時点で乗客数の58パーセント、収入の40パーセントを占めるドル箱路線であった。一方で引き続きアムトラックの経営は運賃収入のみでは赤字であり、運行で生じる欠損を補填するために連邦政府から補助金を受給しており、最大となった1981年では年額8億9630万ドルとなっていた。 コンレールの発足の経緯を通じて、アメリカ国民は鉄道の時代の終わりを痛感した。破綻したシカゴ・ロック・アイランド・アンド・パシフィック鉄道が1980年3月に清算されて消滅したことで、もはやアメリカの鉄道が重大な問題を抱えていることは誰の目にも疑いようのないこととなった。7,000マイル (11,200 km) を超える鉄道網を抱えていた会社が、どこの会社にも継承されることなく単に消え去ってしまったのである。アメリカ政府はこの問題を重視せざるを得なくなった。
※この「アムトラックとコンレール - 政府による関与」の解説は、「アメリカ合衆国の鉄道史」の解説の一部です。
「アムトラックとコンレール - 政府による関与」を含む「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事については、「アメリカ合衆国の鉄道史」の概要を参照ください。
- アムトラックとコンレール - 政府による関与のページへのリンク