アムドの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:40 UTC 版)
詳細は「チベット問題」および「カム反乱」を参照 1950年代に中国共産党によるチベット併合の過程で、共産党政府が「土地改革」をアムド地区でも実施したところ、他のチベット地域と同様に、アムド(青海省)でも大規模な武装蜂起が発生した。1958年3月から8月にかけて、甘粛から青海にかけての42万平方キロにかけてチベット人130,000人が「反乱」を行った。中国軍は、うち116,000人を殲滅し、武器70000丁を押収して平定した。また、「青海省」におけるチベット人・モンゴル人の遊牧民50,000人を逮捕した。この数字は青海省チベット・モンゴル人遊牧民総人口の10%にあたる。逮捕者の84%にあたる45,000人が誤認逮捕であった。拘留中に23,260人が死亡、誤って殺害されたものが173人。宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡している。 なお、この戦乱の当時、中共青海省委員会が「反乱の根を徹底的に取り除き、革命的武装で決定的な打撃を加えなければならない」と報告したところ、毛沢東は、 青海反動派はの反乱は大変結構。勤労人民解放のチャンスがやってきたのだ。(中略)チベット反動派が全面的反乱を起こせば、そこの人民はそれだけ早く解放を勝ち取れるのだ と答えている。 これらの過酷な殺戮行為について、1980年に中国共産党は「青海での極左の誤り」としている。1981年3月には「青海省での極左政策見直し」を決定した。
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