アダムとイヴ
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アダムのパネル。上部に描かれているのは神に供物を捧げるアベルとカイン。 イヴのパネル。上部に描かれているのはアベルを殺害するカイン。 左右両端のパネルには、石造りの壁龕に立つ裸身のアダムとイヴがほぼ等身大で描かれている。初期フランドル派の写実主義で描かれた最初の裸体像であり、ルネサンス初期のイタリア人画家マサッチオが、1425年ごろにフィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂ブランカッチ礼拝堂の壁画に描いた革新的な『楽園追放』(1426年 - 1427年)とほぼ同時代の作品となる。『ヘントの祭壇画』のアダムとイヴの顔は、内側の天使たちとデイシスの方に向けられている。『創世記』に記述されているように、二人とも人目を気にして股間をイチジクの葉で隠していることから、知恵の樹の果実を食べて堕罪した後のアダムとイヴであることがわかる。 イヴが掲げた右手に持っている果実は、伝統的に知恵の樹の果実の描写に用いられていたリンゴでなくシトロンのような小さな柑橘類である。美術史家エルヴィン・パノフスキーはとくにこの果実に着目し、『ヘントの祭壇画』に描かれているエンブレム全てが「偽装」されている可能性があると指摘した。アダムとイヴの視線は伏せられ、絶望しているかのように見える。寂寥感に満ちた両者の描写から、ファン・エイクが何を意図してこのような人物像を描いたのかが美術史家たちの興味をひいてきた。原罪を人類にもたらしたことを恥じているという説、下に向けた視線の先に描かれている現在の世界に失望しているなどといった説がある。 ヤンが『ヘントの祭壇画』の人物像で実現しようとした写実表現は、とくにアダムとイヴの描写で顕著である。後期ゴシック美術が理想化して描き、国際ゴシック美術が発展させた女性表現の好例といえるのが、15世紀初頭のリンブルク兄弟の作品に見られる裸婦像で、とくに『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』のアダムとイヴが典型例となっている。リンブルク兄弟が描いたイヴとそれまでの伝統的な裸婦像を比較すると、「(骨盤が)広く、胸が細く、腰が高い。そして何よりも下腹部の膨らみが胃の存在を表している」と美術史家ケネス・クラークは指摘している。クラークは『ヘントの祭壇画』のイヴについて「いかに詳細な写実表現に優れた偉大な画家かということの証明であり、それまでの理想表現のはるか上をいく。丸みを帯びた身体表現のこれ以上ない好例である。体重を支える右脚は陰に隠れている。計算され尽した身体のラインは胃の辺りで長いカーブを描き、関節や筋肉に邪魔されることなく滑らかな太ももへとつながっている」と表現している。 精密な詳細描写で表現されたアダムとイヴの裸身像は、幾度も人々の非難を浴びた歴史を持つ。1781年に聖堂を訪れた神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世はこのアダムとイヴを見て不機嫌になり、祭壇画の構成からこの2枚のパネルを外せと要求したことがある。また、19世紀の時代感覚では裸身像が教会内部に存在することは受け入れられなかった。そのためアダムとイヴのパネルは、着衣の複製画に一時期置き換えられたことがある。この着衣のアダムとイヴは現在でもシント・バーフ大聖堂で見ることができる。 アダムとイヴを主題として描かれた15世紀の絵画作品と『ヘントの祭壇画』のアダムとイヴとには大きな違いがある。『ヘントの祭壇画』のアダムとイヴのパネルには、当時の作品に伝統的に描かれていた、ヘビ、樹木などエデンの園を思わせるモチーフが一切存在していない。また、上段に描かれている他の人物像に比べると、アダムとイヴはかなり手前に位置しており、2人の足元は最下部のフレームにほとんど接するような場所に置かれている。さらにアダムの右足つま先は軽く持ち上げられており、今にも絵画世界から現実世界へと抜け出しそうな印象を与える。イヴの腕、肩、尻も画面を構成する石造りの壁龕からはみ出しているように見える。これらの技法がそれぞれのパネルに三次元的な奥行きを与えている。このような騙し絵的な印象は、翼を開くときに両翼をわずかに内側に向けた場合により大きな効果となってあらわれる。 アダムのパネルの上には、初子の羊を供物として神に差し出そうとするアベルと、農場で収穫した作物を神に捧げようとするカインが、グリザイユで描かれている。イヴのパネルの上には、神がアベルの供物しか受け取らなかったことに憤ったカインが、アベルを骨で殴り殺す場面が、同じくグリザイユで描かれている。ファン・エイクは一見彫刻に見えるような表現でこれらを描くことによって、作品に深みを与えようとしているのである。
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アダムとイヴ (آدم アーダムと حواء ハウワー)
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「聖書の説話とクルアーンの関係」の記事における「アダムとイヴ (آدم アーダムと حواء ハウワー)」の解説
詳細は「アダムとイヴ」を参照 創世記 2:4-4:1と、アル・バカラ2:30–39、 アル・アアラーフ7:19–27、ター・ハー20:115–123を参照。 神は最初の人類であり男性である創造物を、粘土と、神の口から生じたエランビタールとから創った。神はそれから女性を創った。婚礼について特に言及はないが、二人は結婚したものと思われる。神は彼らを楽園の庭に住まわせた。神は二人に、1つを除けば庭のものは好きなだけ食べてよいと告げた。別の勢力が、食べれば神のようになれると彼らをそそのかし、木の実を食べるよう仕向ける。しかし聖書とクルアーンとは、ここで差異が生じる。クルアーンでは、男アーダムと女は、神のようになれるという誘惑ではなく、永生と衰えることのない王権という誘惑に負けたとされている。 彼らは二人とも食べた。その結果、彼らは恥じて葉で裸を隠すようになった。神は彼らに質問し、木の実を食べてはいけないという神の教えを思い出させた。彼らは返事をした。神は、男と女に、また人類と誘惑者との間にいさかいが起きるようにした。神は、人を楽園の庭から追放し、二人の人間を地上に住まわせた。 他にも、意味深い差異が多くみられる。 聖書では、神は人に動物の名前をつけさせる。クルアーンでは、アッラーフはアーダムに『すべての』名前を教え、アーダムはそれらを繰り返す。 聖書では、女性は男性のあばら骨から創られた。クルアーンでは、一つの魂から創られた。ただし、アブー・フライラの伝えるハディースの中では、ムハンマドが聖書のあばら骨のエピソードに触れている。 聖書では、許されざる木とは善悪の知識の木である。果物はしばしばミルトンの失楽園の描写からリンゴとして描写されるが、聖書の中では明らかにされていない。クルアーンでは、許されざる木の名前には言及されていない[要出典]。 聖書では誘惑者は蛇であり、キリスト教徒はこれを悪魔とみなすが、ユダヤ教徒にはそう考えない者もある。クルアーンでは、誘惑者は悪魔イブリースである。 聖書では、神は人間を神自身をかたどって生み出すが、天使に平伏を命じない。クルアーンでアッラーフは、アーダムを自らをかたどらず生み出し、アーダムの前に平伏するよう天使に言うが、悪魔は拒否をする。
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