アイハヌムとは? わかりやすく解説

アイ・ハヌム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/25 09:19 UTC 版)

アイ・ハヌム
アフガニスタンにおける位置
所在地 タハール州, アフガニスタン
地域 バクトリア
座標 北緯37度10分10秒 東経69度23分30秒 / 北緯37.16944度 東経69.39167度 / 37.16944; 69.39167座標: 北緯37度10分10秒 東経69度23分30秒 / 北緯37.16944度 東経69.39167度 / 37.16944; 69.39167
種類 都市
歴史
完成 前4世紀
放棄 前2世紀
時代 ヘレニズム
文化 ギリシャ人
追加情報
発掘期間 1964年〜1978年
関係考古学者 ポール・ベルナール
状態 廃墟

アイ・ハヌム(Ai-Khanoum, Ay Khanum)は、アフガニスタン北部のタハール州にあったギリシャ人による古代都市で、アレクサンドロス3世による征服後の紀元前4世紀に作られたグレコ・バクトリア王国の主要都市。アレクサンドリア・オクシアナ (Alexandria on the Oxus) に比定され、後のエウクラティディアギリシア語版英語版 (Eucratidia) の可能性もある。"Ai-Khanoum" という名称はウズベク語で「月の婦人」の意[1]オクサス(Oxus、現在のアムダリヤ川)とコクチャ川英語版が合流する地点にあり、インド亜大陸への玄関口だった。アイ・ハヌムは約2世紀に渡り東洋におけるヘレニズム文化の中心地だったが、エウクラティデス1世の死後間もない紀元前145年ごろ遊牧民月氏の侵入によって壊滅した[2]

その遺跡は、1961年に当時のアフガニスタン国王ザーヒル・シャーが、狩猟をしていた際に偶然村人から石灰岩製のギリシャ的な彫刻を持つ柱頭を見せられたことを契機に発見された。1964年から1978年までポール・ベルナールフランス語版率いるアフガニスタン考古学フランス調査団が発掘し、ロシアの科学者も発掘を行っている。アフガニスタン紛争によって発掘は中断し、その地は戦場となってしまい、ほとんど原形をとどめていない。

立地条件

アイ・ハヌムはバクトリアの東端にあった。

この地に都市を築いた理由はいくつか考えられる。大きな川のほとりにあるため、農業用の灌漑水に事欠かなかった。アイ・ハヌムからヒンドゥークシュ山脈に向かう地域は鉱物資源が豊富で、特に歴史的バダフシャーン地方(現バダフシャーン州)のサリ・サング鉱山英語版から産出する「ラピスラズリ」が特に有名である。その他、「ルビー」(実際にはスピネル)やなどもある。さらに、バクトリアの中でも北方の遊牧民の領域と接している地点で、特に中国との交易に重要な場所だった。

バクトリアのギリシア都市

様々な工芸品や建築物が見つかっており、東洋の影響を受けた高度なヘレニズム文化があったことを示している。ヘレニズムの都市の特徴を全て備えており、ギリシア様式の劇場、ギュムナシオンコロネードに囲まれた中庭のあるギリシア様式の住居などがあった。アイ・ハヌムは1.5平方キロメートルの広さの大きなギリシア都市であり、セレウコス朝グレコ・バクトリア王国の主要な都市だった。また、紀元前145年ごろにグレコ・バクトリア王国のエウクラティデス1世が亡くなったころ、この都市は破壊され、その後二度と再建されなかった。

建築物

アイ・ハヌムで見つかった紀元前2世紀ごろのコリント式柱頭。アフマド・シャー・マスードがその地に要塞を築いた際に発見した。

調査団は様々な構造を発掘した。その一部は完全はヘレニズム様式で、一部はペルシア建築の影響を示している。

  • 長さ2マイルの城壁が都市の周囲を囲んでいた。
  • 塔(底辺が20m×11m、高さが10m)と城壁からなる要塞が中央の60mほどの高さの丘に建っていた。
  • 直径84mの円形劇場があった。座席は35列あり、4千人から6千人を収容可能。支配者のための3つの特別席があった。同時代の他の円形劇場と比べると、バビロンのものより大きく、エピダウロスのものより若干小さい。
  • グレコ・バクトリア王国の巨大な宮殿は、ペルシアの宮殿の様式をやや思わせる様式である。
  • 遺跡内で最大の建物は100m×100mのギュムナシオンである。ヘルメースヘーラクレースへのギリシア語の献辞が柱の一つに彫ってあった。献呈者の名としてギリシア風の名前が2つある(Triballos と Strato)。
  • 都市の内外に様々な神殿がある。城壁内の最大の神殿にはゼウスの座像があるが、その様式はゾロアスター教風になっている。ギリシア建築のように円柱を多用した開放的な建築ではなく、壁で覆われている。
  • マケドニアの太陽アカンサス模様、動物(カニ、イルカなど)を描いたモザイクが見つかっている。
  • コリント式の円柱が多数見つかっている。

彫刻

アイ・ハヌムで出土した紀元前2世紀ごろの化粧しっくい製の顔面

様々な彫刻の断片も出土しており、同時期の地中海での発展した様式よりも若干古い伝統的様式の彫刻が多い。

特に、素晴らしいギリシア様式の巨大な足の部分が見つかっており、全高5mから6mの彫像の一部と推定されている(神殿を支えていた円柱の高さに合わせて座った形の像だったと思われる)。その足が履いているサンダルがゼウスのシンボルを備えていることから、その像はオリンピアのゼウス像を小さくしたものと考えられる。

他にも次のような彫像の部分が見つかっている。

  • やや古風なキトーンを着た女性の彫像
  • 化粧しっくいで形成された男性の顔
  • リースを持つ若者の未完成の彫像
  • ギリシアの料理人奴隷を表したガーゴイルの頭部
  • ヘルメースと思われるクラミスを着用した裸の男性のフリーズ
  • ギュムナシオンで出土した、そのギュムナシオンの責任者と思われる男性のヘルマ風の像。左手に長い棒を持っていたと思われ、それが役職を表していたと考えられる。

アイ・ハヌム周辺には彫刻に適した石が少なかったため、木の骨組みに粘土や化粧しっくいを盛っていく塑像が多く、その技法が中央アジアからさらに東へと広まっていき、特に仏教美術でよく見られるようになった。場合によっては手足だけを大理石で作っている。

金石文

アイ・ハヌムでは、現地語化していない古代ギリシア語の金石文も多数見つかっている。

  • 紀元前300年から紀元前250年のものとされる Kineas というギリシア人のものと判明している墓の墓標には、次のようなデルポイの格言が刻まれていた。Kineas はギリシア人入植地の oikistes(創設者)だという記述もある。
"Païs ôn kosmios ginou (子供のころは、よく学び)
hèbôn enkratès, (若いころは、感情の制御を学び)
mesos dikaios (中年のころは、正しくあり)
presbutès euboulos (老いては、よき助言を与え)
teleutôn alupos. (死に際して、後悔はない)"
(アイ・ハヌムの碑文)

この格言は Clearchos というギリシア人がデルポイから複写してそこに記したと碑文にあり、この Clearchos はアリストテレスの弟子 Clearchus of Soli の可能性もある。

上の碑文が刻まれている Kineas の墓石(紀元前2世紀)
  • パピルスが薄いレンガの壁に押し付けられ、書かれた内容がそこに転写されたものが出土している。内容は、イデア論についての未知の哲学的な問答であり、クセノクラテスと別の哲学者の問答を記したものではないかと考えられている[3]
  • 宮殿の宝物庫からも様々なギリシア語の金石文が見つかっている。それらは様々な壷の中身やそれを担当している管理者の名前を記したものである。そこに表れている管理者の階層は地中海のギリシア地域と同じである。書かれている名前から、宝物庫の管理者はギリシア人だったが、下級の管理者にはバクトリア人もいたことがわかる[4]。承認者の名はギリシア人(Kosmos, Isidora, Nikeratos など)だが、マケドニア人またはトラキア人と思われる名が1つ (Lysanias)、バクトリア人の名が2つ (Oxuboakes, Oxubazes) ある。

次の文章は、その宝物庫にあったオリーブオイルの壷の預り証(ギリシア語)を英語に翻訳したものである。

"In the year 24, on ....;
an olive oil (content);
the partially empty (vase) A (contains) oil transferred from
two jars by Hippias
the hemiolios; and did seal:
Molossos (?) for jar A, and Strato (?) for jar B (?)" [5]

これらの壷は計算によると紀元前147年まであった。このことからアイ・ハヌムはその直後に破壊されたことが示唆される。

その他の遺物

獅子に牽かれたキュベレー、奉納された生贄、太陽神を描いたプレート(紀元前2世紀)

エウクラティデス1世の時代までのグレコ・バクトリア王国の硬貨が多数出土しているが、それ以降の貨幣は見つかっていない。Agathocles とヒンズーの神々を描いた珍しい硬貨も出土している。ヴェーダの神々を描いた最古の硬貨とされており、ヴィシュヌの初期のアヴァターラバララーマ-シェーシャヴァスデーヴァ-クリシュナなどが描かれている。これらはグレコ・バクトリア王国が北インドを侵略していた証拠と考えられる。

他にも以下のような遺物が出土している。

  • 戦車に載ったキュベレーと炎の祭壇が描かれ、上にヘーリオスが描かれた、丸い浮き彫りのプレート
  • ほぼ完全な形のヘーラクレースのブロンズ像
  • 宝石や金を使ったアクセサリ
  • 宝物庫から見つかったインドの工芸品。エウクラティデスが遠征の際に持ち帰ったものと推測される。
  • アフロディーテの座像の形をした洗面所用トレイ
  • 髭をたくわえ王冠をかぶった中年男性の浮き彫り

日時計、インク壷、食器などの各種出土品から、日常生活はギリシア風だったことがわかる。

地中海との交易

アイ・ハヌムからオリーブ・オイルのつぼが見つかっており、地中海からオリーブ・オイルを輸入していたことがわかる。当時、オリーブを栽培していたのはエーゲ海沿岸やシリアだけだった。したがって、地中海方面との陸路の交易路が存在していたことが示唆される[6]

インドとの関係

アイ・ハヌムで見つかったインド様式の皿。Kuntalaの神話を描いたものと言われている。

ヒンドゥークシュ山脈までのアフガニスタン南部は、紀元前305年ごろからマウリヤ朝の領土であり、デメトリオス1世が紀元前180年に再征服するまでその状態が続いた。アイ・ハヌムはインド側領土からほんの数キロの地点にあり、1世紀以上の間インドの玄関口となっていた。

アイ・ハヌムからは、インドで作ったと思われる遺物もいくつか出土しており、特にKuntalaのインド神話を描いたとされる貝殻で作られ様々な素材と色を象嵌されたプレートが有名である[7]

アイ・ハヌムで出土したウッジャインの緯度に合わせて調整された赤道式日時計(紀元前3世紀から紀元前2世紀)

リグ・ヴェーダの神々の像を描いたギリシア風貨幣も出土している。

また、ウッジャインの緯度にあわせた赤道式日時計などの各種日時計も出土しており、マウリヤ朝との交流、さらにはインド・グリーク朝の拡大の中でインドの天文学も伝わっていたことも示唆されている[8]

貨幣

アイ・ハヌムで出土したレンガにあったシンボル

アイ・ハヌムには独自のシンボルがあった(基本的には三角形の中に丸があり、若干のバリエーションがある)。最古の建物のレンガにそのシンボルが刻まれている。

同じシンボルはセレウコス朝の硬貨にも使われており、それらはアイ・ハヌムで鋳造されていた可能性がある。セレウコス朝の硬貨はこれまでほとんどがバクトラで鋳造されたと考えられていたが、最近ではアイ・ハヌムで鋳造された貨幣の方が多いとも言われている[9]

アイ・ハヌムで出土した貨幣はセレウコス朝時代のものに始まり、エウクラティデスの時代で突然終わっている。つまり、彼の治世の終わりと共にこの都市が征服されたことを示している。

遊牧民の侵略

北方の遊牧民(スキタイ月氏)がオクサス(アムダリヤ川)を渡ってバクトリアに侵入したのは紀元前135年ごろである。月氏の侵略に続く紀元前130年から120年にアイ・ハヌムは放棄されたとみられる。主要な建物には大規模な火災の痕跡がある。最後のグレコ・バクトリア王ヘリオクレスは紀元前125年ごろ、都をバルフからカーブルの谷に移した。アイ・ハヌムではヘリオクレスの硬貨が見つかっておらず、この都市がエウクラティデスの治世の最後に破壊されたことを示唆している。インド・グリーク朝の下で紀元10年ごろまでギリシア人がインド北部の各地を支配し続けたが、インド=スキタイ族に征服された。そのわずか数十年後、月氏によるクシャーナ朝が起こり、北インドに領土を拡大していった。

ベグラムハッダの遺跡と同様、アイ・ハヌムの遺跡も長引くアフガニスタン紛争によって略奪と破壊が横行している。

重要性

アイ・ハヌムはインドの玄関口にあたる。

アイ・ハヌムの出土品はグレコ・バクトリア王国インド・グリーク朝の文明を示す遺物として重要であり、それまでは硬貨以外にそれら文明の痕跡は見つかっていなかった。そのため「バクトリアの幻影」とまで言われていた。

この発見によってギリシアが東洋に与えた影響に新たな視点が与えられ、仏教美術へのギリシアの影響が再確認された。

アイ・ハヌムから出土したとされるほぼ実物大の深緑色のガラス製ファルスなど、数々の出土品はスイス・アフガニスタン研究所の所長 Paul Bucherer-Dietschi がスイスで数年間保管していたが、現在はカーブル博物館に返還されている[10]

脚注・出典

  1. ^ Bell, George. "Journal of the Royal Society of Arts". Royal Society of Arts, 1970. p. 445
  2. ^ Bernard, P. (1994): "The Greek Kingdoms of Central Asia." In: History of civilizations of Central Asia, Volume II. The development of sedentary and nomadic civilizations: 700 B.C. to A.D. 250. Harmatta, János, ed., 1994. Paris: UNESCO Publishing. ISBN 92-3-102846-4, p. 103.
  3. ^ Claude Rapin, "De l'Indus à l'Oxus", p375. Also full description of the papyrii (French)
  4. ^ Claude Rapin, "De l'Indus à l'Oxus", p375
  5. ^ original text and French translation
  6. ^ Frohlich, p.10
  7. ^ "Afghanistan, tresors retrouves", p150
  8. ^ "Les influences de l'astronomie grecques sur l'astronomie indienne auraient pu commencer de se manifester plus tôt qu'on ne le pensait, dès l'époque Hellénistique en fait, par l'intermédiaire des colonies grecques des Gréco-Bactriens et Indo-Grecs" (French) Afghanistan, les trésors retrouvés", p269. 翻訳:「ギリシアの天文学はこれまで考えられていたよりも早くからインドの天文学に影響を与えていたと思われ、グレコ・バクトリアのギリシア人入植地の代表者やインド・グリーク朝を通してヘレニズム時代に影響を及ぼしたと考えられる」
  9. ^ "Seleucid coins of Bactria", Brian Kritt
  10. ^ 出典、BBC News別の記事。ドイツ語の写真を交えた詳細な解説は こちら

関連項目

参考文献

  • Tarn, W. W. (1984). The Greeks in Bactria and India. Chicago: Ares. ISBN 0-89005-524-6 
  • Bopearachchi, Osmund (2003) (French). De l'Indus à l'Oxus, Archéologie de l'Asie Centrale. Lattes: Association imago-musée de Lattes. ISBN 2-9516679-2-2 
  • Frohlich, Pierre (2004) (French). Les Grecs en Orient. L'heritage d'Alexandre. La Documentation photographique, n.8040. Paris: La Documentation Francaise 
  • Afghanistan: Hidden Treasures from the National Museum, Kabul (2008). Eds., Friedrik Hiebert and Pierre Cambon. National Geographic, Washington, D.C. ISBN 978-1-4262-0374-9.

外部リンク


アイ・ハヌム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:04 UTC 版)

中央アジアの美術」の記事における「アイ・ハヌム」の解説

中国ギリシャの歴史書に見えバクトリア王都バクトラ現在のアフガニスタンバルフ比定されている。しかし、バルフにある城塞遺跡であるバラ・ヒッサールではバクトリア王国時代さかのぼ遺物確認されていないバクトリア王国時代さかのぼギリシャ式の都市遺跡として初め発見されたのは、アフガニスタン北東部位置するアイ・ハヌムである。「アイ・ハヌム」とはウズベク語で「月の婦人」を意味するアム川とコクチャ川の合流点位置するこの都市遺跡は、1964年以降、ポール・ベルナールを中心とするフランス隊によって発掘が行われた。アイ・ハヌムは西はアム川、南はコクチャ川をそれぞれ境とし、市街地には長さ約1.6キロメートルメインストリート南北貫通するこの道の東にはアクロポリスの丘や半円形劇場があり、西には王宮神殿祠堂体育場ギムナジウム)などがあった。建物日干し煉瓦主体とし、には石灰岩切石用いている。様式コリント式が主である。建築日干し煉瓦多用する点はアジア的であるが、都市プランギリシャ的なものである前述祠堂にはこの町の創設者であるキネアスを祀り、そこからは同人墓碑であるギリシャ語碑文出土している。アイ・ハヌムは紀元前4世紀末頃に建設され紀元前1世紀侵略者によって破壊された後は再建されずに放棄されている。交通の要衝でもないこの地に大規模なギリシャ都市建設され理由はよくわかっていない。当地からの出土品には、石灰岩大理石製の彫像コイン象牙製品などがある。 アイ・ハヌム出土遺物のうち、『キュベレー女神像円板』(画像参照)が著名である。この円板アフガニスタン国立博物館蔵所)は、銀製鍍金で径25センチメートル。2頭の獅子が引く二輪戦車の上キトン長衣)とヒマティオン短衣)を着したキュベレー女神が立ち、その脇には有翼女神ニケか)が立つ。戦車背後向かって左)から女神日傘差しかける人物神官とみられる戦車前方向かって右)にも別の神官がいる。天空には太陽後光としたヘリオス表され、その横には三日月と星が見える。キュベレー小アジアアナトリア起源の神、ニケヘリオスギリシャの神であり、馬車ペルシャ風であるなど、この小さな円板中にもさまざまな文化の要素見られる。 アイ・ハヌム出土品アフガニスタン国立博物館ヘラクレス銅製 老人像(ヘルメス像)石灰岩胸像付き銅製把手コリント式柱頭 アイ・ハヌムの都市プラン

※この「アイ・ハヌム」の解説は、「中央アジアの美術」の解説の一部です。
「アイ・ハヌム」を含む「中央アジアの美術」の記事については、「中央アジアの美術」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アイハヌム」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アイハヌム」の関連用語

アイハヌムのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アイハヌムのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアイ・ハヌム (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの中央アジアの美術 (改訂履歴)、サガ スカーレット グレイス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS