アイヌと和人の共学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 20:23 UTC 版)
大正時代中期になると、和人とアイヌとの差別教育への反対意識が次第に強くなった。1921年(大正10年)、北海道旧土人保護法の大改正が行われ、アイヌの小学校は廃止され、和人とアイヌの小学校の統合が示された。アイヌ児童だけの小学校は差別教育の象徴だとするアイヌ側と、同化政策の方針からアイヌを直接和人教育へ組み込もうとする行政側の意見が、異なる理由ながらも初めて一致したことによるものだった。 同1921年、第二小学校は和人の学校である第一小学校と統合され、虻田尋常高等小学校(後の洞爺湖町立虻田小学校)となり、白井はその校長に就任した。第二小学校のアイヌの児童たちは、レベルの低い教育を受けていたことで少なからず和人から差別を受けていたため、この統合を大いに喜んだ。 しかし白井は、この統合は大きな試練になることを予期していた。統合後の学級の中ではアイヌの生徒は5,6人程度で、肩身の狭い思いは避けられず、また言葉、文化、価値観、生活環境の違いも否定できない。授業内容も多少アイヌに合せた内容になるため、和人の生徒にとっても戸惑いがあろうことから、両者の間にトラブルは避けられない、との考えだった。やがて彼の危惧通り、アイヌの生徒たちは自分たちの置かれた状況を理解し始め、次第に和人の生徒に遠慮するようになり、欠席する児童も増え始めた。 ある日ついに、アイヌの児童と、アイヌを馬鹿にした和人の児童との衝突が、取っ組み合いの喧嘩にまで発展した。喧嘩を止めに入った白井は、悲しみのあまり立ち尽くしたまま、肩を震わせてうな垂れ、涙をこぼした。それを見ていた児童たちは言葉を失い、白井にすがりついて大泣きする児童もいた。この一件は全校児童、その保護者たちにまで広まり、アイヌと和人との学校統合の困難さを浮き彫りにすることとなった。普段は物静かで優しい白井の悲しさを敏感に感じ取った児童たちは、二度といさかいを起こすことはなくなり、互いを気づかい、差別をなくす努力を始めるに至った。 第二小学校とは違い、統合後小学校では校長職以外は部下の職員たちが担当し、白井には校長室が与えられていた。しかし白井がこの部屋に留まることは滅多になく、欠席しがちなアイヌの児童がいれば毎朝家に立ち寄るなど、児童たちの心にあいた穴を埋めようと必死の努力をしていた。休み時間になれば児童たちと共にグラウンドを駆け回ったり、共に池を作ったり、木を植えたりと、純粋な児童たちに関ることを生きがいとしていた。幼いアイヌの児童は、校内でも庭先でも所構わずに大便をすることがあったが、白井は不満を言うどころか、微笑みながらその始末をしていた。 また校務の傍らで、コタンの人々の生活物資の共同購入と信用事業のための消費組合として「土功組合」を結成したりと、コタンの教化にも尽力した。一方、自宅の来訪者に対しては、誰であろうと分け隔てなく、玄関の前に正座して指を立てて迎えた。こうした白井の存在はいつしか村にとって大きな希望に、村民たちにとっては大きな誇りとなっていった。伊達女子職業学校(後の北海道伊達高等学校)校長として推薦された際、村の有志やアイヌたちが白井にアイヌに留まることを懇願するなど、転任話が出るたびに村を上げての反対運動が起こるほどだった。 1924年(大正13年)、白井は政府から高等官の一種である奏任官の位を与えられた。当時は警察や司法関係者が多く就く役であり、学校長が選ばれることは日本全国的に見ても異例のことであった。村民たちは喜びに沸き返り、市街地から旧第二学校へと続く、白井が毎日昇り降りした坂道を「白井坂」と命名し、その名の碑が建立された。白井もまた村民たちに感謝し、以来その坂を通るときには脱帽して、自分の心が緩まないよう鞭を打つことを心掛けていた。また、村民が祝賀のために記念品代を白井に贈ったが、白井はそれを全額、学校の文庫と蓄音機の購入費として寄付した。 1927年(昭和2年)にはペスタロッチ百年忌にあたって、教育功労賞を受賞した。同年の北海道内での受賞者は、ただ1人であった。1933年(昭和8年)には、勲六等瑞宝章を受章した。 私生活では1929年(昭和4年)に妻に先立たれ、妻の病中に長女も入院し、妻の死後は遺された子供たちの養育や家事に追われていたが、職場ではその苦労を微塵も見せることはなかった。妻が危篤であっても学校へ出勤し、臨終の報せを受けてから家に戻ったという。
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