アイヌとの交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 21:35 UTC 版)
先述のキニーネのように用意のいいカネであったが、衣服には苦労をしていた。使いの者を船で送り出せば、往復3日ほどで服の購入が可能であったが、船を出すほどの余裕はなく、当時は物価も非常に高かったのである。 カネは服など身の回りのものを、現地で調達することにした。渡辺家はアイヌと親しくなっていたことから、アイヌがカネたちの力となった。アイヌの女性は、アイヌの織物であるアットゥシを、1枚につき縫い針3本で交換してくれた。このアットゥシが、カネの野良着であった。脚はショウブの茎を乾かして作った草履や草鞋を履くこともあったが、多くの場合は裸足であった。 こうしてカネはアイヌと協力し合い、交流を深めた。アイヌ住民の相談相手にもなった。当時の和人はアイヌの地位を低く見ていたため、アイヌと和人の折り合いはよくなかったが、勝とカネはアイヌに対して対等に接していたため、アイヌたちは勝を「ニシパ」(「親方」の意)と呼んで親しみ、勝とカネの家に入り浸って交友を楽しんだ。カネの孫は、カネはアイヌ語を相当に話すことができたと証言している。 アイヌと同様の身なりをするカネは、次第にアイヌに溶け込んでいった。多くの調査員、測量技師、旅行者らが渡辺家を北海道への足がかりとしたが、その1人である北海道庁の技手の内田瀞が1888年(明治21年)に家を訪れた際は、内田はアットゥシ姿のカネをアイヌの女性と見誤るほどであった。またカネの幼い娘たちは、アイヌの古老たちに家族のように懐くにもかかわらず、洋服姿の内田には警戒して、懐くことがなかったいう逸話もある。
※この「アイヌとの交流」の解説は、「渡辺カネ」の解説の一部です。
「アイヌとの交流」を含む「渡辺カネ」の記事については、「渡辺カネ」の概要を参照ください。
- アイヌとの交流のページへのリンク