アイヌとの関わりについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 08:33 UTC 版)
「南北之塔」の記事における「アイヌとの関わりについて」の解説
北海道弟子屈町出身のアイヌ文化伝承者、弟子豊治(てしとよじ)は、1944年、旭川第二十四師団第八十九連隊に入隊し、満洲経由で沖縄南部に派遣され、八重瀬町与座付近に配置された。軍隊生活の中、近くにある真栄平に出入りし、地域住民と交流を持った。多くの戦友が戦死したものの、弟子は命からがら生き残って北海道に帰った。 1965年、アイヌ古式舞踊公演のため、13人のアイヌによって構成されるアイヌ文化使節団の団長ととして沖縄を訪れた弟子は、真栄平を訪れた。そこでかつて親交のあった地域住民と再会した。 弟子は「キムンウタリ」と書いた木の慰霊碑を建て、アイヌの伝統的な慰霊の儀式、イチャルパを行った。「キムンウタリ(kimun-utari)」とは、「山の・同胞」という意味。弟子が所属していた部隊が通称「山部隊」と呼ばれていたことによる。 弟子は、慰霊塔の建立運動に賛同し、自分もその運動に協力したい旨を申し出、翌年、250ドルの寄付を集めて真栄平を再訪し、その250ドルは慰霊塔の一番上部の石碑に使われた。石碑の北側には弟子の希望で「キムンウタリ」というアイヌ語が彫られた。 沖縄戦で北海道出身の兵士が多数戦死しており、その中にアイヌも含まれていることから、北海道アイヌ協会が、南北之塔で1981年にイチャルパ(供養祭)を実施し、その後、1985年・1990年・1995年・2000年・2005年にも実施されている。そういった由来から、その他のアイヌ民族関係団体が慰霊祭を実施することがある。アイヌと沖縄の友好のシンボルとして関係者の間ではよく知られている。 この慰霊碑を「アイヌの慰霊碑」であると誤認して紹介した出版物もあるが、これは正しくない説明である。地域住民からこのことが批判されたこともある。あくまで地域住民による遺骨収集、慰霊のための運動が基本にあり、納骨堂が建立された。それに弟子らアイヌの協力が加わったと理解すべきである。
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