『青空』の広報活動
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1925年(大正14年)6月、淀野隆三の意見を聞き入れ、著名作家に『青空』第4号を寄贈することになり、基次郎も宛名書きや喫茶店への広告ビラ書きを手伝った。この頃、淀野や外村と観にいった日仏展覧会でアントワーヌ・ブールデルの彫刻に感心した。7月、「泥濘」を掲載した『青空』第5号を発行した。実家の小間物屋は店を半分に分け、エンジニアの兄・謙一の技術指導を受けた弟・勇がラジオ店を開業した。この前年に大阪のラジオ放送局JOBKが開局していた。 8月の夏休みは、外村茂と一緒に淀野の実家を訪ね、宇治川で舟遊びをし、京都博物館に行った。同月には、神経痛の父を松山の道後温泉へ送った後に船で大阪に戻った。この頃「路上」に取りかかり、下旬に宇賀康と一緒に和歌山の近藤直人も訪ねた。9月中旬に上京する途中に、近藤直人と比叡山や琵琶湖に行き、松尾芭蕉の『奥の細道』について語った。 10月、「路上」を掲載した『青空』第8号を発行し、この号から部数を300から500部にした。この月、基次郎はなけなしの金をはたいて、帝国ホテルで開かれたジル・マルシェックスのピアノ演奏会に6日間通い、瞑想的な気分に浸り感動を味わった(これがのち「器楽的幻想」の題材となる)。同月下旬は、千葉県の陸軍鉄道部に入隊する中出丑三を、矢野繁と一緒に送っていった。 11月、「橡の花」を掲載した『青空』第9号を発行した。北神正(法学部。筆名は金子勝正)と清水芳夫(画家・清水蓼作。淀野隆三の友人)が同人参加するが、北神は第10号だけで抜けた。12月、伏見公会堂と大津の公会堂で『青空』文芸講演会が開かれ、基次郎は大津で「過古」を朗読し、余興として歌も歌った。聴衆は7名(内2人は『真昼』同人)だった。 1926年(大正15年)1月、「過古」を掲載した『青空』第11号を発行。2月、「雑記・講演会其他」を掲載した『青空』第12号を発行した。この号から、基次郎が誘った飯島正が同人参加した。3月中旬、帝大仏文科に入学が決まった後輩の武田麟太郎が上京したため、三好達治と3人で銀座に行くが、飲み屋「プランタン」で明治大学の不良と大喧嘩となり、武田が築地警察署の留置場に入れられた。 4月中旬、基次郎は外村茂と共に飯倉片町の島崎藤村宅を訪問し、5月発売の同人誌『青空』第15号を直接献呈した。「雪後」と「青空同人印象記」を掲載した6月の『青空』第16号から同人に三好達治が参加した。「雪後」は友人・矢野繁をモデルにした小説である。 7月、「川端康成第四短篇集『心中』を主題とせるヴァリエイシヨン」を掲載した『青空』第17号を発行。北神正が同人に復帰した。この号を購入した東京商科大学予科生の田中西二郎(のち中央公論社入社)は基次郎の川端論を読んで感心していた。『青空』は経営難のため、三高劇研究会の同人誌『真昼』との合同が模索されたが、この計画は実現しなかった。 8月、「ある心の風景」を掲載した『青空』第18号を発行した。炎天下、基次郎は微熱が続く中、配本に神楽坂や四谷を歩き回ったり、銀座松屋の広告を取ったりした。中旬、基次郎は激しい疲労で病状が進み血痰を見た。麻布の医者から「右肺尖に水泡音、左右肺尖に病竈あり」と診断された。そして大手出版社の雑誌『新潮』の編集者・楢崎勤から10月新人特集号への執筆依頼を受け、この猛暑の夏、大阪で執筆に取り組むが、書けずに終り、9月に新潮社に詫びに行った(この時に未完の作品が、のち「ある崖上の感情」となる)。 しかしその3日後に、書簡体小説「Kの昇天」を書き上げ、10月、「Kの昇天――或はKの溺死」を『青空』第20号に発表した。この頃、結核の進行にあせっていた基次郎は、毎晩寝床で「お前は天才だぞ」と3度繰り返し自分に暗示をかけていた。月末に三好達治が基次郎からの強い誘いで、飯倉片町の下宿の隣室に入った。心境小説こそが小説の進むべき方向と考えていた基次郎は、三好に志賀直哉の『雨蛙』を勧め、三好から萩原朔太郎の詩を教えられた。2人は松尾芭蕉七部集を注釈書で勉強した。
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