『青空』創刊――檸檬
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1924年(大正13年)10月上旬、本郷菊坂下の中谷孝雄の下宿に集まった基次郎ら同人6人は雑誌の正式名称を何にするか相談した。基次郎は「薊」(あざみ)という名がいいと主張したが、水を揚げない花だと反対する者があり廃案となった。中谷と同棲を再開していた平林英子が、武者小路実篤の詩に「さわぐものはさわげ、俺は青空」というのがあると窓辺で中谷に囁いた。 中谷が快晴の空を見上げながら「青空はいいな」と叫び、即座に基次郎が賛同して「青空」に決定した。中谷と吉祥寺に行って十三夜の月見をした基次郎は、作家として生計を立てる決意を告げたという。 以前から基次郎は、京都での自分の鬱屈した内面を客観化しようとした「瀬山の話」を書き進めていたが完成に至らずに習作どまりで断念していた。その中の「瀬山ナレーション」の断章挿話「檸檬」(一個のレモンと出会ったときのよろこびと、レモンを爆弾に見立て、自分を圧迫する現実を破砕してしまおうという感覚を描いたもの)を独立した作品に仕立て直して、創刊号に発表することにした。 同人らは『青空』創刊号に掲載する原稿を10月末に持ち寄り、帝大前の郁文堂書店に発売を依頼するが印刷代が高額だったため、そこでの印刷は断念し、稲森宗太郎の友人・寺崎浩の父親が岐阜刑務所の所長をしていた伝手で、刑務所の作業部で印刷してもらうことになった。外村茂と忽那吉之助が帰郷ついでに刑務所に原稿を渡した後、校正などの事務連絡に手間取り、創刊発行は新年になることになった。 11月、中谷夫妻が江戸川区に転居したため、基次郎の下宿が同人の集合する場所になった。この頃、基次郎は武蔵野を散策して、国木田独歩の『武蔵野』のような作品を書きたいと考えていた。フランスと日本の20世紀絵画(林武、黒田清輝)への関心が強まった基次郎は、〈前からもさうでしたが、自分個人的なそしてその場その場の感興に身を委せるといふ様なことに無意識的に移つて来たやうに思ひます〉と近藤直人に書き送り、同人誌創刊号に載せる小説について語った。 創作といつても短いのを一つ――あまり魂が入つてゐないものを仕上げて此度出す雑誌へ出しました。此度いよいよ雑誌が出るのです、名前は青空――いづれ京都へも出ますが広告しておいて頂きたい様な愧しい様な気持です。(中略)あなたにはお送りいたしますが決して意気込んで送るのではありませんからそのお積りで。然し何年でも私はこれを守り立てゝゆく積りでゐます。その内にみなも段々調子が揃つて来るだらうと思ひます。 — 梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(大正13年11月12日付) 12月、宇賀康の家の紹介で、郊外の荏原郡目黒町字中目黒859番地(現・目黒区目黒3丁目4番2号)の八十川方に下宿先を変えた。この家は偶然にも母の若い頃の友人宅であった。27日には、印刷された『青空』300部を受け取りに、中谷、外村と3人で岐阜刑務所作業部に出向いた。 半数を外村茂の実家に送付し、残りを携えて京都に行き、販売協力のため円山公園にある料亭「あけぼの」で待つ劇研究会後輩の浅沼喜実、北神正、新加入の淀野隆三(文甲3年。伏見の鉄商の息子)、龍村謙(文乙2年。西陣織の染織研究・龍村平蔵の長男)に渡した。その夜、基次郎と外村は後輩らと、伏見過書町の淀野隆三の実家に泊り、翌日は先輩の山本修二の家(京都寺町丸太町)に行った。 1925年(大正14年)1月、小説「檸檬」を掲載した同人誌『青空』創刊号が販売されたが、評判にならなかった。雑誌を文壇作家に寄贈しなかったためと思われたが、それは基次郎が「彼らは書店で(30銭を払って)買って読む義務がある」と主張したからだった。先月半ばから取りかかっていた次号作の執筆に取り組む基次郎は下宿の部屋から出なかったので、仲間から「目黒の不動さん」と呼ばれた。
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