『資本論』翻訳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 04:55 UTC 版)
高畠が『資本論』に出会ったのは、『東北評論』の筆禍事件で下獄した1908年である。それは当時出版されつつあった英訳の『資本論』であったが、以後高畠はドイツ語原本で『資本論』を読む必要を感じ、独学でドイツ語を習得した。 『資本論』は、ユニテリアン教会伝道団体の統一基督教弘道会の会長で社会民衆党議長の安部磯雄により1909年からごく一部が翻訳されたことはあったが、マルクス経済学独自の用語の難解さもあり、必ずしも読者を満足させるものではなかった。しかし以後のマルクス経済学の進捗と、第一次世界大戦より来たった社会主義の流行と相俟って、日本の読書会にも『資本論』翻訳が熱望されるに至った。 高畠は1911年に売文社に入社する以前から『資本論』の研究を始めていたが、売文社入社と『新社会』発刊以後、マルクス研究に果敢に乗り出していく。特に『新社会』に連載されたカウツキーの『資本論解説』は苦心の産物であり、この時に生み出された多くの専門用語が、後に高畠訳『資本論』に流れ込んでいった。高畠自身が言うように、高畠の『資本論』理解は、カウツキーの『資本論解説』による所が大きい。 このように長時間かけて『資本論』研究を続けた高畠は、堺・山川と袂を分かった後、折からの社会主義流行も関係して、自らの主宰する売文社で高畠訳『資本論』の発行を企図していた。ところがこれを聞きつけた堺利彦の推薦もあり、高畠は福田徳三門下と共同で『マルクス全集』の一環として、複数人による『資本論』翻訳を諒承した。そこでは高畠は『資本論』第1巻を担当することになっていた。 しかしこの動きと前後して、突如として松浦要と生田長江の『資本論』翻訳が出版された。この松浦訳と生田訳の『資本論』は、必ずしも識者を満足させるに至らなかったが、当の高畠自身が執拗に攻撃し、また罵詈雑言を浴びせかけ、遂には完訳を断念するのやむなきに至らしめたほどであった。こうして同業者を駆逐した後、高畠は1920年6月、まず『資本論』第1巻第1分冊を大鐙閣から出版した。 高畠は第1巻第2分冊以下を順調に刊行していったが、途中で福田徳三門下が翻訳を放棄したため、第3巻も高畠の翻訳担当となり、続いて第2巻翻訳者も遁走したため、結局高畠が『資本論』全3巻を独力で翻訳することになった。そのため第1巻、第3巻、第2巻という順序で刊行され、また出版社の大鐙閣が関東大震災の余波で倒産し、而立社(大鐙閣の元社員が作っていた出版社)で第2巻が出版されるなどの変更があった。しかし兎にも角にも、この大鐙閣‐而立社で、1924年(大正13年)7月、日本で初めて『資本論』が完訳された。 しかし大鐙閣版『資本論』は、高畠自身、満足できるものではなかった。高畠によると、余りに原文に忠実に訳しすぎたため、訳文のみでは何を書いているか分らないものになってしまったというのである。 新潮社版 高畑は、大震災による紙型の焼失を幸いとして、また新潮社からの申し出もあり、直ちに改訳に着手した。高畠はまず原文を見ずに大鐙閣版『資本論』中の難読箇所を自在に書き改め、ついで再び原文と照らし合わせて訳文の完成を期した。そのため原文の直訳を求めつつ、極力日本文として分りやすい訳文を作る努力を繰り返した。こうして生まれたのが、(1925年大正14年)10月から1926年(大正15年)10月にかけて新潮社から出版された改訳『資本論』全四冊である。 高畠もこれには自信をもったらしく、大鐙閣版完成の折は断ったという翻訳完成の慰労会を受け、1926年(大正15年)10月23日、本郷の燕楽軒で「資本論の会」が開かれた。「資本論の会」は、60人余りの出席者だったとされるが、日頃、高畠と意見のあわなかった吉野作造を始め、上杉慎吉、石川三四郎、平野力三、小川未明、辻潤ら左右両極、修正派・無政府主義者と多彩な顔ぶれであった。 改造社版 この新潮版『資本論』から誤字脱字の修正を行い、当時流行しつつあった円本ブームに乗るかたちで出版されたのが、1927年から翌年にかけて発行された改造社版の『資本論』である。これは戦前の翻訳『資本論』の定本と言われており、全5冊であった。これは高畠が「一先ず拙訳資本論の定本たらしめん」ことを期したものである。 高畠は1928年、改造社版『資本論』終結の8ヶ月後に死去した。『資本論』翻訳に携わった時間は、最も精力的に活躍した7年間であったため、関係者には、高畠は『資本論』の翻訳と引き換えに死んだようなものだと噂された。高畠の『資本論』翻訳は、大変な熱意と努力、継続の結晶であった。事実、高畠が改造社版『資本論』を終えた時、座布団の下の畳は既に腐っていたといわれている。 翻訳の特徴 高畠の翻訳の特徴は、極力無駄な言葉を省き、日本文としてこなれたものを求めたと言われる。これは大鐙閣版『資本論』が直訳的であるのに対し、改造社版が流暢な日本語に置き換えられていることからも推察される。しかしこのような訳法に対して批判がないわけではなかった。特に事実上、改造社版『資本論』と商売上で争うことになった河上肇は、自身の『資本論』翻訳に際しては、極力原文に忠実に訳すことを目的とし、ためにまま日本語として意味の通じぬところも已むなしとしたほどであった。 これは『資本論』の如き難解の書を訳す場合には、訳者の訳法に影響されるものであるが、これについて三木清が高畠訳を批判したため、いささか論争を起こしたことがあった。また高畠も、河上が高畠訳を批判する割りに、自身の翻訳は一向に完成させないことに苛立ちを覚えていたと言われている。しかし河上の翻訳は結局完成せず、また高畠自身もそれを知ることなく世を去った。 没後 『資本論』翻訳は、高畠の没後も、河上肇、その門下の長谷部文雄らによって試みられるが、時勢の困難もあり、遂に完訳には至らなかった。そのため高畠訳『資本論』は、戦前を通じて唯一の全訳『資本論』となった。 敗戦後、高畠訳『資本論』は二度ほど出版されたが、既に長谷部文雄、向坂逸郎、岡崎次郎らによって新訳が刊行されたこともあり、時代的使命を終えて今日に至っている。
※この「『資本論』翻訳」の解説は、「高畠素之」の解説の一部です。
「『資本論』翻訳」を含む「高畠素之」の記事については、「高畠素之」の概要を参照ください。
- 『資本論』翻訳のページへのリンク