岡崎次郎
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岡崎 次郎(おかざき じろう、男性、1904年(明治37年)6月29日 - 1984年(昭和59年)?)は、日本のマルクス経済学者、翻訳家。マルクスの大著『資本論』の翻訳で知られる。
注釈
- ^ 『週刊朝日』(1994年6月17日号)の記事には以下のように解説されている。ただし、丸括弧内の年齢は記事が発表された当時のものであり、漢数字から算用数字に改めた。
河出書房などで編集者をして、岡崎さんとの親交が深い
本吉久夫 さん(76)は、これより少し前、自宅を訪ねた。本吉さんが出版をすすめた『マルクスに凭れて六十年』が青土社から出たばかりで、岡崎さんは、「おかげでいい本ができたよ」と礼を言い、本の裏表紙にこう記した。
「おだてて、こんな本を作らせた本吉久夫さんに、いま、ただありがとう」
それを本吉さんに手渡す前に奥さんに見せた。すると、奥さんの目にみるみる涙があふれてきたという。
本吉さんが言う。
「子どものいない二人の間では、『この本ができたら、二人でこの世から身を隠そう』とおそらく決めていたんでしょう。奥さんは、ついにその時がきた、と胸に迫ったんですね。岡崎さんは六十歳になったころから、『人生は自分で結末をつける。だけど、まだ女房の承諾がとれないんだ』と冗談半分、まじめ半分に言っていました」[1] - ^ 『週刊朝日』(1994年6月17日号)の記事には以下のように解説されている。ただし、丸括弧内の年齢は記事が発表された当時のものであり、漢数字から算用数字に改めた。
旅に出る直前、東京・本郷にある自宅マンション(賃貸で2LDK)に、親類や親しい学者仲間を呼んで、それとなく「最後の別れ」を告げている。
「これから西のほうへ行く」
と言うのを、渡辺寛 東北大経済学部教授(62)は聞いた。同年五月十九日のことだ。
法政大の教員時代から「尊敬の念をもって接してきた」という渡辺さんは、岡崎さんがそれ以前にも「死出の旅立ち」を何度か口にするのを聞き、思いとどまるように説得していた。このときも、
「西のほうとは、西方浄土とひっかけてるんだな」
と思ったという。
家財道具もあらかた処分されガランとした部屋で、帰りぎわに岡崎さんは、
「君、これ、持ってけよ。こういうのもいいんだよ」
といって、少しほこりをかぶったカセットを二つ、渡辺さんに手渡した。倍賞千恵子 とちあきなおみの歌だった。苦笑しながら受け取り、
「これでお別れですね」
と言うと、「うん」と一つうなずいた[1]。 - ^ 『週刊朝日』(1994年6月17日号)の記事には以下のように解説されている。ただし、丸括弧内の年齢は記事が発表された当時のものであり、漢数字から算用数字に改めた。
さて、本郷のマンションを引き払った岡崎夫妻は、西に旅立つ最後の日の六月五日夕、品川の高輪プリンスホテルで、長姉の
後藤雪江 さん(二年前に九十二歳で死去)、その息子で第一勧銀信用開発相談役の後藤寛 さん(69)、その娘の祐子 さん(31)と五人で中華料理の会食をした。
「旅行中の連絡先は寛のところにしておいたので、よろしく頼む」
と岡崎さんは言い、あとはとりとめのない昔話がつづいた。話の合間に、やはり「西のほうへ行くよ」と言ったのを、寛さんははっきりと覚えている。クニさんの足が相当弱っていたことから、タクシーでの旅になるだろう、ということも聞いた。
祐子さんが振りかえる。
「食事の後、ロビーでお茶を飲んだんですが、父と次郎さんが話し込んで、祖母とおクニさんがしんみりしていました。お茶の後、玄関先で、おばあさん同士が手を取り合ってお別れしていたのを、よく覚えています」
ホテルに泊まる岡崎夫妻に見送られて、後藤さんたち三人は自宅にもどった。雪江さんは、息子と孫娘に、
「次郎が自分で決めて姿を消すというのだから、本人の気のすむようにしてやることがいちばんじゃないだろうか」
と言ったという[2]。 - ^ a b 評論家の呉智英は呉 (2003, p. 113)で以下のように解説している。
翌年八十歳になるのを目前に『マルクスに凭れて六十年』を岡崎次郎は書いた。遺書のつもりである。
後に岡崎次郎の「死出の旅路」を記事にした『週刊朝日』(一九九四年六月十七日号)によれば、本ができ上がった時、岡崎にこれを見せられた妻の目に涙があふれてきたという。妻はそこにこう書かれていたのを知っていたわけではない。
「いま私にとって問題なのは、いかに生きるかではなく、いかにしてうまく死ぬかである」「せめて最後の始末だけでも自主的につけたいものだ」
この文章を読んでいなくても、妻は岡崎次郎の気持を察知し、万感の思いが込み上げてきたのだ。本が出た後、岡崎は友人知人にこれを配り、さりげなく別れの会を持って言った。「これから西の方へ行く」。
家財を整理し、東京本郷のマンションを引き払った岡崎夫妻は、文字通り西の方へ旅立った。
『週刊朝日』の記事によれば、まず品川のホテルに泊まり、次いで伊豆の温泉に行き、浜松を経て関西に入った。その後、岡山、広島など中国を何ヶ所か回ったらしい。東京を旅立って四ヶ月後、大阪のホテルに宿泊したことは記録からわかる。その後、岡崎夫妻の行方は、現在もなお不明である[3]。 - ^ 『週刊朝日』(1994年6月17日号)の記事には以下のように解説されている。
こうして、六月六日から、タクシーを使った老夫妻の「西への旅」が始まった。
家財道具いっさいを処分した夫妻に残された財産は、三和銀行に預けた約四百万円の預金だけだった。旅先で預金を引き落とすと同時に、ホテルなどに泊まるときは、JCBカードを使うこともあり、三和銀行から引き落とされる明細が、連絡先とされた後藤寛さん宅に届いた。
その引き落としの明細は残っていないが、後藤さんの記憶によれば、宿泊先は一流ホテルが多く、同じホテルに二、三日ほど泊まって次の場所に移る、という形だった[4]。 - ^ 『週刊朝日』(1994年6月17日号)の記事には以下のように解説されている。
こうした岡崎さんの「旅立ち」の動機について、本吉さんが語る。
「岡崎さんは、上原専禄 さんや対馬忠行 さんのことを何度か話してました。特に対馬さんには『先を越されちゃったよ』って冗談ともつかない口調でいっていました」
上原専禄さんは一橋大の元学長。六〇年安保闘争では文化人グループの中心の一人として活躍したが、晩年、「亡くなった妻の回向 をするために旅立つ」とごく親しい人だけに言い残して消息を絶った。京都で四年余り隠遁した果てに、ひっそりと死んだ。
対馬忠行さんは、岡崎さんとも親交があった。やはりマルクス学者でトロツキー研究家だったが、瀬戸内航路の旅客船から身を投げた。東京の老人ホームを出たまま行方がわからず、白骨死体が、ほぼ四ヵ月後に神戸港沖で見つかった。
東北大教授の渡辺寛さんも、岡崎さんが、
「対馬さんのように死体が見つかってはいかんのだ」
と言うのを聞いたことがあるという。
岡崎さんのJCBカード引き落としの最後は、八四年九月三十日、大阪のホリディイン南海だった。「失踪」してから、ほぼ四ヵ月後だった[5]。 - ^ 当初は共訳として持ちかけられた[6]。
- ^ 本文中にいう『剰余価値学説史』新全集版(新訳)は『マルクス資本論草稿集』5ー8(大月書店、1980‐1984年)として刊行された[8]。
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