「標的艦」摂津
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1921年(大正10年)11月からはじまったワシントン海軍軍縮会議当時、アメリカは日本海軍の長門型戦艦2番艦「陸奥」を未完艦とみなし(会議中、日本側主張により既成艦と認める)、日本が保有可能し得る主力艦に計上していなかった。日本側は強く反発し、「摂津」を犠牲にして「陸奥」を復活させる意向であった。1922年(大正11年)2月6日、各国はワシントン海軍軍縮条約締結に至る。日本海軍の保有主力艦(戦艦)は10隻であった。すなわち金剛型(金剛、比叡、榛名、霧島)、扶桑型(扶桑、山城)、伊勢型(伊勢、日向)、長門型(長門、陸奥)と定められ、「陸奥」の代艦として「摂津」は退役させられることとなった。だが廃艦にする主力艦のうち1隻は標的艦に変更することが出来たため、日本側は「摂津」をあてた。 同年3月、大正天皇皇后(貞明皇后)は香椎宮に参拝する。「摂津」は皇后の御召艦となるが、これは艦内に余裕があったこと、関門海峡を通過しやすかったこと、先に「摂津」が大正天皇の御召艦になった事がある、などの観点から決められたという。3月9日に葉山を出発した皇后は、19日以降香椎宮・筥崎宮・大宰府天満宮を参拝する。23日、皇后は門司港から駆逐艦「萩」に乗艦、つづいて「摂津」に移乗した。皇后は3月24日から26日にかけて、江田島の海軍兵学校に行幸する。当時、兵学校(校長鈴木貫太郎中将)には高松宮宣仁親王(大正天皇三男)が生徒として在籍していた。26日朝、皇后(摂津)は江田島を出発、神戸港で退艦した。 1923年(大正12年)10月1日、摂津は軍艦籍および艦艇類別等級表より除籍された。標的艦(特務艦)に類別変更される。この類別変更にともない、主砲や装甲など戦闘艦としての装備を全廃した。同時期、海岸要塞砲の整備計画をすすめていた日本陸軍は、日本海軍に要塞砲の製造を依頼していた。陸海軍の調査と協議の結果、「保転砲」として数隻分の艦載砲を陸上要塞砲に転用することが決まる。摂津の50口径12インチ連装砲2基(前後砲)は陸軍クレーン船「蜻州丸(せいしゅうまる)」によって長崎県対馬要塞まで運搬される。同要塞の竜ノ崎砲台に設置され、一号(後部砲塔)は1929年(昭和4年)に、二号(前部砲塔)は1935年(昭和10年)に完成した。45口径12インチ砲連装砲4基(舷側砲)は予備品として分解保存された。なお、12センチ砲1門が福岡県の香椎宮に寄贈され、いまなお保存されている。 標的艦となった当初の「摂津」は、自身が標的となるのではなく標的となる目標を曳航するのが任務であった。一例として、摂津は標的艦土佐(加賀型戦艦2番艦)を自沈地点まで曳航する任務にも従事した。標的艦となった「摂津」であったが、数年後には予備艦となり呉軍港で係留された。 一方、日本海軍はドイツで戦艦の無線操縦に成功したとの情報を1921年に得て研究に着手。1928年には電動機と電池を用いたシステムで駆逐艦「卯月」での実験に成功した。またアメリカ海軍は戦艦ユタを標的艦に改造し、ドイツ海軍の戦艦テューリンゲン(ドイツ語版、英語版)も標的艦に改造されていた。これらは無線操縦・無人航行が可能であったが、そのためにはボイラーの自動制御が必要であった。日本海軍はドイツ海軍からボイラーの自動燃焼装置(制御装置)を輸入。舞鶴海軍工廠で試作品をつくり、同工廠で建造中の初春型駆逐艦夕暮(1934年5月6日進水、1935年3月30日竣工)に装備して実験を重ねた。完成品は呉海軍工廠に送られ、摂津に装備された。
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