「権威的統治法制時期」
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1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、同年9月2日、東京湾のアメリカ軍艦ミズーリ号上において重光葵外相が降伏文書に署名した。同日GHQは、一般命令第1号により、日本に対し台湾の中華民国への返還を求めた。この前日の9月1日に中華民国国民党政権は、台湾省行政長官公署組織大綱を定め、陳儀を台湾省行政長官兼台湾警備総司令に任じた。10月25日受降式典が行われ、台湾の主権は中華民国に帰属した。中国大陸では、北京に続き南京放棄、上海陥落と国民政府軍の敗退は決定的になり、蔣介石国民党総裁は1949年7月24日、アモイから台湾に逃れてきた。この国民党政府の移駐に伴い、中華民国の法体制が台湾に持ち込まれ、前述の日本時代の法体制をほぼ完全に取り換えた。この中華民国の法体制は、1930年代前後にその当時のドイツ法をモデルとして制定された諸法典および1946年に制定されたが、事実上効力を停止されている中華民国憲法と、同憲法を停止させている根拠である「動員戡乱時期臨時条款」という戦時法律から構成される。この時期(1945年から1987年)の諸法典は、その内容自体は、個人の自由と権利の保護を目的とする近代的なもののみならず、個人の積極的な社会的権利の保障を目的とする現代的なものも含まれていた。しかし、「動員戡乱時期臨時条款」と、とそれにつづく38年間にわたる戒厳令下では、自由民主的な法制の形骸化がもたらされた。
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