「宇宙航行の主席理論家」
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「ムスチスラフ・ケルディシュ」の記事における「「宇宙航行の主席理論家」」の解説
1947年、兵器省の主導で行われていたソ連のロケット開発に、科学アカデミーも協力することが決定。ケルディシュも、ロケット開発の中心だった第88研究所を訪れ、その活動に強い興味を持った。ケルディシュが所長となった第1研究所は、かつて反動推進研究所であった頃にロケット研究を担っていたが、その後改名、改組が相次ぎ、ロケット開発から航空機エンジン開発へ転向していた。ケルディシュは、第1研究所のロケット研究を再建すべく、広く人材を集め始めた。数学研究所で自身が率いる部門にも、意欲的な若手研究者を集め、その集団は陰で「ケルディシュ少年団」と呼ばれていたまたケルディシュは、第88研究所(英語版)の顧問となり、そこでセルゲイ・コロリョフと知り合う。ケルディシュとコロリョフは協力体制を築き、コロリョフが設計部門、ケルディシュが研究部門の指導者として、二人三脚でソ連のロケット開発、宇宙開発を牽引してゆくことになる。 第1研究所ではまず、有翼ロケット製作上の課題に取り組んだ。後にブーリャとして実用化される大陸間弾道弾のために、ケルディシュは弾頭の熱防御、自動制御、弾道学、天測航法の問題を解決する研究の指揮をとり、宇宙開発で重要となる技術開発の基礎を作った。大陸間弾道ミサイルの完成は、ラヴォーチキン設計局やミャスィーシチェフ設計局が中心となって成し遂げられたが、部局間の調整やとりまとめに果たしたケルディシュの役割も大きかったといわれる。1948年頃からは、科学アカデミー数学研究所でケルディシュが部長を務める力学部、後には応用数学部、応用数学研究所で、ロケットや宇宙飛行の力学について重要な計算を行う仕事に着手した。その初期の成果は、多段ロケットの適切な構成と仕様の分析・決定として結実し、コロリョフのR-7ロケットの最終的な構成の決定に役立った。衛星軌道からの弾道降下や、受動的な姿勢安定化機構の研究も行われ、スプートニク計画やヴォストーク計画の成功に貢献した。 ロケットの開発総責任者会議に参画するようになっていたケルディシュは、1954年、コロリョフから人工衛星構想を打ち明けられると、その構想に賛同し、科学アカデミーを人工衛星計画賛成でまとめ上げた。その年の内に、人工衛星計画「オブエクトD」(後のスプートニク3号)を立案すると、翌年には計画を監督する科学アカデミー内の委員会の委員長に就任、人工衛星計画のとりまとめに当たった。オブエクトDの製作は難航し、大幅に機能を縮小した「最も簡易なスプートニク」(スプートニク1号)が先に打ち上げられ、世界初の人工衛星となった。ケルディシュは当初、観測装置を持たず科学的な意義の薄いスプートニク1号に難色を示していたが、スプートニク1号の衛星軌道投入が成功したのは、ケルディシュの指揮で数学研究所応用数学部が人工衛星の課題解決に取り組んだ成果でもあった。また、打ち上げが成功すると、応用数学部で衛星の追跡、軌道予測を行い、電子計算機を用いた軌道決定法を開発した。このことは、後の惑星間探査機でも飛行計画や軌道の決定に活かされた。 ケルディシュは、月・惑星探査にも強い関心を持っており、スプートニク1号の成功を追い風にして、コロリョフと共にソビエト連邦共産党中央委員会から月探査計画の承認を取り付け、ルナ計画が始まった。ケルディシュとコロリョフは、並行して火星・金星へ飛行するための弾道計算にも着手した。ケルディシュとその指揮する数学研究所応用数学部では、宇宙機の弾道設計や航法支援を始めとして、惑星間空間の航行に必要なあらゆる領域での様々な問題に、電子計算機を用いた計算手法の開発も含めて取り組んだ。ケルディシュらが実行した弾道計算は、エレクトロンやプロトンといった人工衛星の運用などにも活かされた。 1959年には、ケルディシュは科学アカデミーにおける宇宙研究に関する全部局科学技術評議会の議長に指名され、ソ連の宇宙科学発展の要として重責を担うことになった。この役目は、後に科学アカデミー総裁に就任して多忙を極めた時期も継続し、マルス計画やベネラ計画における探査機の開発と計画の実現を指揮した。 このように、ケルディシュはソ連の宇宙計画において最も重要な指導者の一人であったが、大陸間弾道ミサイルの配備と密接に関わり、アメリカとの熾烈な宇宙開発競争の核心にあったケルディシュの仕事は機密情報であり、一般に向けては「宇宙航行の主席理論家」としか伝えられなかった。ロケットの開発総責任者会議でしばしばケルディシュと同席したボリス・チェルトクによれば、ケルディシュは、半ば眠った状態で必要な情報を取り込んで考える能力を持っており、会議が議論で長引くと、ケルディシュは目を閉じて黙ってしまうので、皆が彼は眠り込んだと思っていると、やおら目を開けてポイントを突いた反駁や質問をして、周囲を驚かせたという。ケルディシュは、ロケット開発における特段の功績と、ヴォストーク1号による世界初の有人宇宙飛行成功への貢献によって、1961年に2度目の社会主義労働英雄を授与されている。
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