開発と計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:35 UTC 版)
「ポートランド (オレゴン州)」の記事における「開発と計画」の解説
ポートランドは早くも1903年に都市計画家との相談を交わしている。ワシントンパークと、全米屈指の優れた緑道であり市内の多くの公園を結んでいる40マイル・ループは、この時に開発が始められた。 ポートランドは都市利用計画の強い統制が布かれていることで、しばしば引用される。これは、当時のオレゴン州知事トム・マコールが1973年に行った州規模での土地保全政策(特に州内の全ての都市および都市圏に「都市成長境界」が策定されたこと)によるところが大きい。この対極にある統制がほとんどない都市の例としては、テキサス州のヒューストンが有名である。 ポートランドの都市成長境界は1979年に策定され、伝統的農業地(非農業的開発は厳格に制限されている地域)と都市化地域(高密度開発が集中的に推進される地域)が明確に区別された。当時、州間高速道路沿いの都市や郊外・衛星都市の開発が進み自動車の利用が増していく中で、多くの地域で中心都市の衰退を引き起こしており、このような時代においてオレゴン州の政策は異質なものだった。 人口が増加し、都市成長境界内の未開発地域が減少していくにつれて、都市成長境界の規制緩和の動きが見られるようになる。ワシントン郡にある主要企業であるナイキとインテルは、この規制緩和への圧力を援助した。 もともと州の規定では、都市成長境界を拡大する予定を盛り込んでいたが、この拡大が実際に行われていないとして批判を呼んでいた。1995年、州は今後20年間の宅地開発を成長させるため都市成長境界を拡大し、十分な未開発地域を与えるとする法案を通過した。 ダウンタウンの開発で重要な役割を担う準公的機関として、ポートランド開発委員会がある。この委員会は1958年に市の再開発機関として有権者により設立された。委員会は市域内の住宅・経済開発計画を立ち上げるほか、現地の大規模なプロジェクトを抱えるデベロッパーの後援を行う。 1960年代の初め、ポートランド開発委員会はI-405、ウィラメット川、4番アベニュー、マーケット通りに囲まれた、大規模なイタリア系ユダヤ人街の解体を推し進めた。 1970年代にニール・ゴールドシュミットが市長に就任すると、夕方5時を回ると閑散となっていたダウンタウンに住宅回帰の動きが見られるようになる。この動きは、その後30年間にわたって影響を及ぼし続けており、ダウンタウンの3地区(ポートランド州立大学の北側一帯、川沿いでマーカム橋の下に広がるリバープレイス地区、都心にあるパールディストリクト地区)に数千の住宅が建てられるようになった。 ポートランド州立大学地理学科地図研究センターに附設する都市緑地研究所は、建築物と自然環境のよりよい統合を推進するための研究所であり、都市公園、トレイル、自然地域の計画問題について局所・地域の両レベルから研究を行っている。 グリスト誌によれば、ポートランドはアイスランドのレイキャヴィークに次ぐ世界第2位の「環境に優しい都市」である。2010年には、Move.comにおいてポートランドは全米のグリーンな都市10傑のうちの1つに選ばれている。
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