後の開発と計画の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/19 02:00 UTC 版)
「クライスラーのタービンエンジン」の記事における「後の開発と計画の終焉」の解説
クライスラーのタービンエンジン計画はクライスラータービン自動車で終わらなかった。1966年式ダッジ・チャージャーの新しいクーペの車体が新たな第4世代のタービンエンジンのために検討された。しかしながら、クライスラーは最終的にアメリカの窒素酸化物の規制に適合する第6世代のガスタービンエンジンの開発を進め、1966年式ダッジ・クロネットに搭載したが販売はされなかった。 アメリカ合衆国環境保護庁(EPA)より開発の予算を与えられ、小型で軽量の第7世代エンジンが1970年代初頭に生産され、1977年に量産化の前哨として専用の車体のクライスラー・レバロンが製造された。しかし、1978年に経営が大幅に悪化した事により新たにCEOに就任したアイアコッカは破産を避けるためにアメリカ政府の債務保証を必要とした。1978年のアメリカ政府の取引条件はクライスラーの規模の自動車会社にはガスタービンエンジンの計画は"リスクが高すぎる"として撤退する事を条件に入れた。 クライスラーのタービンエンジンは市販の自動車には搭載されなかったものの、実験の成果は1970年代末に(後にジェネラル・ダイナミクス社へ売却された)クライスラーディフェンスの開発したM1エイブラムス 主力戦車のハネウェル AGT1500に取り入れられた。
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