後の説と解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:39 UTC 版)
時が経つにつれて、日誌の異常な記入の存在についての話が展開してきた。それらはマーシャルに12月12日に「わたしが以前20年間に見たことがないような激しい風があった」("severe winds the likes of which I have never seen before in twenty years")と言わせているとされている。彼はまた、デュキャットが「とても静か」("very quiet")で、ドナルド・マッカーサーが泣いていた、と報告したと言われている。マッカーサーは騒々しい口論をする評判のある古参の船員だったし、かくして彼が嵐に反応して泣いているのは奇妙であろう。12月13日の日誌記入には、嵐がまだ荒れ狂っている、男3人全員が祈っていた、と述べていると言われた。これもまた、男3人全員が経験ある灯台管理員であり、海抜150フィートの安全な構造の中にいて、内部で安全であることを知っていたために、困惑させた。さらにまた、12月12日、13日、14日には、この地域で嵐は報告されていなかった。最後の日誌記入は12月15日になされ、「嵐は終わり、海はないでいる。神はすべてを超えている」("Storm ended, sea calm. God is over all")と述べられていると言われている。 その後の研究者らは、島の地理を考慮に入れた。アイリーン・モールの海岸線は、入江(geo)と呼ばれる狭い峡谷で深くへこんでいる。そのような入江の中に位置する西の上陸場は、洞窟で終わっている。公海あるいは嵐では、海水がその洞窟の中に突入し、その後かなりの力でふたたび爆発するものである。マッカーサーに島に接近する一連の大波を見えたかもしれず、同僚らへの危険の可能性を知って激しいうねりで同様に洗い流されるように彼らに警告するために駆け下りました。ジェームズ・ラヴによる最近の調査では、以前マーシャルが巨大な強風のなか機器が流されたとき5シリングの罰金が科せられていたことが発見された。彼とデュカットは別の罰金を回避しようとして、嵐の最中に機器を確保しようとし、その結果流されたということは、ありそうである。マッカーサーの運命は、灯台に人を配置するために後に残らねばならなかったけれども、同じであると推測できる。ラヴは、マッカーサーは十中八九同僚らに警告しようとしあるいは助けようとし流された、と推測している。この説には、屋内に残っているオイルスキンのセットとペグに残っているマッカーサーのコートを説明するという利点もあるが、ひょっとして閉じていたドアとゲートはそうではないかもしれない。別の説は、1953年から1957年までフラナン諸島の灯台員であったウォルター・アルデバートの直接の経験に基づいている。彼は、1人の男が海中に流されたかもしれないが、しかし仲間らは彼を救おうとして、より多くの一発大波によって流された、と信じていた。 さらなる提案は、灯台員らの心理に基づいている。伝えられるところでは、マッカーサーは激しやすい人物であった。これが、ウェスト・ランディング(West Landing、西上陸場)のすぐそばの崖の端の近くでの戦いにつながったかもしれず、そのために3人全員が落ちて死亡した。別の説は、男のうち1人が発狂し、他の2人を謀殺し、遺体を海に投げ込み、その後みずから跳び込んで死亡したというものである。
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