"福永家の悲願"とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > "福永家の悲願"の意味・解説 

"福永家の悲願"

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:53 UTC 版)

ワグネリアン (競走馬)」の記事における「"福永家の悲願"」の解説

福永祐一の父は、かつて騎手だった福永洋一である。洋一現役だった1970年代年間最多勝複数獲得し、さらに天皇賞やクラシックを6勝。その騎乗ぶりから「天才」と評されていた。しかし、1979年毎日杯落馬30歳騎手生命絶たれ大怪我負い道半ば引退余儀なくされた。洋一は、クラシック三冠競走のうち、皐月賞1977年ハードバージを、菊花賞1971年ニホンピロムーテー優勝導いていたが、かねてより一番欲しいと周囲打ち明けていた最高峰ダービータイトルには届かなかった。ダービーには、7回参戦する機会があった。その中には先述皐月賞優勝馬ハードバージではなく先約だったホリノエンジェルに騎乗し15敗退。代わって武邦彦騎乗ハードバージが、ラッキールーラクビ届かず2着となったこともあった。7回のうち勝利に近づいたのは、1978年カンパーリの3着(優勝:サクラショウリ)だった。 洋一引退から約15年後の1996年に、長男祐一騎手としてデビュー果たし同年JRA賞最多勝利新人騎手獲得している。19歳時には目標を訊かれて「親父勝てなかったダービー勝ちたい」と述べていた。2年目には東京スポーツ杯3歳ステークスキングヘイロー騎乗しJRA重賞初優勝スターダムへキングヘイローとともにクラシック路線中心に躍り出てデビュー3年目1998年には、ダービー初騎乗を果たしている。相棒キングヘイローは、スペシャルウィークに次ぐ2番人気支持となり、祐一にとってはGI勝利を目指す舞台でもあった。しかし祐一は、緊張あまりに我を失い末脚良いはずのキングヘイロー先行させてしまう。終いで全く抵抗できず14着に敗れていた。ダービーから20年間は、翌1999年プリモディーネ桜花賞制してGI勝利を挙げ牝馬三冠競走制覇2008年には洋一勝利数超えJRA通算1000勝を挙げる活躍見せていた。 福永祐一日本ダービー騎乗成績初優勝まで)戦年回騎乗馬人気 着順 1着(2着)馬1 1998 65 キングヘイロー 2 14スペシャルウィーク 2 2000 67 マルカミラー 14 17アグネスフライト 3 2001 68 プレシャスソング 8 08ジャングルポケット 4 2003 70 エイシンチャンプ 5 10ネオユニヴァース 5 2004 71 メイショウムネノリ 17 17キングカメハメハ 6 2005 72 アドマイヤフジ 9 04ディープインパクト 7 2006 73 マルカシェンク 5 04メイショウサムソン 8 2007 74 アサクサキングス 14 02ウオッカ 9 2008 75 モンテクリスエス 10 16ディープスカイ 10 2009 76 セイウンワンダー 3 13ロジユニヴァース 11 2010 77 リルダヴァル 8 12エイシンフラッシュ 12 2011 78 ユニバーサルバンク 11 10オルフェーヴル 13 2012 79 ワールドエース 1 04ディープブリランテ 14 2013 80 エピファネイア 3 02キズナ 15 2014 81 レッドリヴェール 4 12ワンアンドオンリー 16 2015 82 リアルスティール 2 04ドゥラメンテ 17 2016 83 レインボーライン 12 08マカヒキ 18 2017 84 カデナ 8 11レイデオロ 19 2018 85 ワグネリアン 5 01着 (エポカドーロ) しかしダービーは、1999年2002年以外の18挑戦しても縁がなかった。2003年は、朝日杯フューチュリティステークス勝利導いたエイシンチャンプと、重賞戦線押し上げたネオユニヴァース二択から、エイシンチャンプ選択しダービー10敗退。この時騎乗しなかったネオユニヴァースダービー優勝とともに、春のクラシック二冠達成してしまい、周囲に「オヤジみたいなこと(ハードバージ乗り替わり)をして」と言われたという。2005年アドマイヤフジではディープインパクト敗れるも、初入着の4着。2006年マルカシェンクでは、小倉新馬戦自身騎乗する予定蹴って新潟重賞優先して石橋守の手渡ったメイショウサムソンに、敗れて4着。2007年アサクサキングスは、14番人気逃げ残ったが、牝馬ウオッカ差し切られて2着だった。 それから2009年は、最優秀2歳牡馬皐月賞3着のセイウンワンダーテン乗り臨み3番人気支持される13着。2012年は、皐月賞2着のワールドエース臨み初め2.5倍の1番人気の支持集めていたが、ディープブリランテ差し届かず4着。2013年も再び皐月賞2着のエピファネイア臨み3番人気支持直線追い上げて抜け出すことができたが、後方外から追い込んだ騎乗キズナ差し切られ、半馬身及ばず2着。その後2014年は、牝馬桜花賞2着のレッドリヴェール4番人気12着。2015年皐月賞2着のリアルスティール2番人気4着に敗れていた。祐一は、次第ダービー諦めるようになり、騎手ではなく調教師になって勝つしかない」とも考えたことがあったという。 2012年4着ワールドエース左端青帽) 2013年2着エピファネイア(左奥黄帽) 2017年夏祐一ワグネリアン新馬戦騎乗する前日に、キセキ騎乗し500万円以下を優勝し史上8人目武豊次いで史上2番目のスピードJRA通算2000勝を達成している。その直後記録達成催しでは、今後目標を訊かれ、答えようとした直前に、観客席から「ダービー」の声が飛び「そう、ダービーですね」と発言していた。その翌日ワグネリアン2001勝目挙げ、その次のダービー戴冠果たしている。祐一は、ダービー決勝線先頭駆け抜けてから、ウイニングラン行い退場する際のスタンド前で涙を流している。勝利して涙を見せたのは、祐一師匠北橋修二調教師管理馬マルカコマチで1999年京都牝馬特別優勝して以来2度目のことだった。福永は「人のことで感動したり、心が震えることはあっても、自分成し遂げたことで感動したのは初めて。涙が出るなんて思ってもなかった。こんな経験初めて」と振り返っている。 夢にまで見たけど、これがダービー勝ったジョッキー景色かと。父に代わって目に焼き付けました。ようやく福永洋一息子として誇れる仕事ができた。いい報告できます福永家にとっての悲願でしたから — 福永祐一 福永レース後のインタビュー発言したこの一文は、「福永家悲願」として各所報じられた。滋賀県自宅にいた洋一テレビ観戦優勝見届けていたという。ダービー戴冠までに19戦を要したのは、1993年ウイニングチケット優勝した柴田政人に並ぶ、史上最多記録だった。

※この「"福永家の悲願"」の解説は、「ワグネリアン (競走馬)」の解説の一部です。
「"福永家の悲願"」を含む「ワグネリアン (競走馬)」の記事については、「ワグネリアン (競走馬)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「"福永家の悲願"」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「"福永家の悲願"」の関連用語

"福永家の悲願"のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



"福永家の悲願"のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのワグネリアン (競走馬) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS