"福永家の悲願"
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「ワグネリアン (競走馬)」の記事における「"福永家の悲願"」の解説
福永祐一の父は、かつて騎手だった福永洋一である。洋一は現役だった1970年代に年間最多勝を複数回獲得し、さらに天皇賞やクラシックを6勝。その騎乗ぶりから「天才」と評されていた。しかし、1979年毎日杯で落馬。30歳で騎手生命を絶たれる大怪我を負い、道半ばで引退を余儀なくされた。洋一は、クラシック三冠競走のうち、皐月賞を1977年にハードバージを、菊花賞を1971年にニホンピロムーテーを優勝に導いていたが、かねてより一番欲しいと周囲に打ち明けていた最高峰・ダービーのタイトルには届かなかった。ダービーには、7回参戦する機会があった。その中には、先述の皐月賞優勝馬ハードバージではなく、先約だったホリノエンジェルに騎乗し15着敗退。代わって武邦彦騎乗のハードバージが、ラッキールーラにクビ差届かず2着となったこともあった。7回のうち勝利に近づいたのは、1978年カンパーリの3着(優勝:サクラショウリ)だった。 洋一の引退から約15年後の1996年に、長男の祐一が騎手としてデビューを果たし、同年のJRA賞最多勝利新人騎手を獲得している。19歳の時には、目標を訊かれて「親父が勝てなかったダービーを勝ちたい」と述べていた。2年目には東京スポーツ杯3歳ステークスでキングヘイローに騎乗しJRA重賞初優勝しスターダムへ。キングヘイローとともにクラシック路線の中心に躍り出て、デビュー3年目の1998年には、ダービー初騎乗を果たしている。相棒のキングヘイローは、スペシャルウィークに次ぐ2番人気の支持となり、祐一にとってはGI初勝利を目指す舞台でもあった。しかし祐一は、緊張のあまりに我を失い、末脚が良いはずのキングヘイローを先行させてしまう。終いで全く抵抗できず14着に敗れていた。ダービーから20年間は、翌1999年にプリモディーネで桜花賞を制してGI初勝利を挙げ、牝馬の三冠競走全制覇。2008年には洋一の勝利数を超え、JRA通算1000勝を挙げる活躍を見せていた。 福永祐一の日本ダービー騎乗成績(初優勝まで)戦年回騎乗馬人気 着順 1着(2着)馬1 1998 65 キングヘイロー 2 14着 スペシャルウィーク 2 2000 67 マルカミラー 14 17着 アグネスフライト 3 2001 68 プレシャスソング 8 08着 ジャングルポケット 4 2003 70 エイシンチャンプ 5 10着 ネオユニヴァース 5 2004 71 メイショウムネノリ 17 17着 キングカメハメハ 6 2005 72 アドマイヤフジ 9 04着 ディープインパクト 7 2006 73 マルカシェンク 5 04着 メイショウサムソン 8 2007 74 アサクサキングス 14 02着 ウオッカ 9 2008 75 モンテクリスエス 10 16着 ディープスカイ 10 2009 76 セイウンワンダー 3 13着 ロジユニヴァース 11 2010 77 リルダヴァル 8 12着 エイシンフラッシュ 12 2011 78 ユニバーサルバンク 11 10着 オルフェーヴル 13 2012 79 ワールドエース 1 04着 ディープブリランテ 14 2013 80 エピファネイア 3 02着 キズナ 15 2014 81 レッドリヴェール 4 12着 ワンアンドオンリー 16 2015 82 リアルスティール 2 04着 ドゥラメンテ 17 2016 83 レインボーライン 12 08着 マカヒキ 18 2017 84 カデナ 8 11着 レイデオロ 19 2018 85 ワグネリアン 5 01着 (エポカドーロ) しかしダービーは、1999年と2002年以外の18回挑戦しても縁がなかった。2003年は、朝日杯フューチュリティステークスを勝利に導いたエイシンチャンプと、重賞戦線に押し上げたネオユニヴァースの二択から、エイシンチャンプを選択し、ダービー10着敗退。この時騎乗しなかったネオユニヴァースがダービー優勝とともに、春のクラシック二冠を達成してしまい、周囲に「オヤジみたいなこと(ハードバージの乗り替わり)をして」と言われたという。2005年のアドマイヤフジではディープインパクトに敗れるも、初入着の4着。2006年のマルカシェンクでは、小倉の新馬戦で自身が騎乗する予定を蹴って新潟の重賞を優先して石橋守の手に渡ったメイショウサムソンに、敗れて4着。2007年のアサクサキングスは、14番人気で逃げ残ったが、牝馬のウオッカに差し切られて2着だった。 それから2009年は、最優秀2歳牡馬で皐月賞3着のセイウンワンダーとテン乗りで臨み、3番人気に支持されるも13着。2012年は、皐月賞2着のワールドエースと臨み、初めて2.5倍の1番人気の支持を集めていたが、ディープブリランテに差し届かず4着。2013年も再び皐月賞2着のエピファネイアと臨み、3番人気の支持。直線で追い上げて抜け出すことができたが、後方外から追い込んだ武騎乗のキズナに差し切られ、半馬身及ばず2着。その後も2014年は、牝馬・桜花賞2着のレッドリヴェールと4番人気12着。2015年は皐月賞2着のリアルスティールと2番人気4着に敗れていた。祐一は、次第にダービーを諦めるようになり、騎手ではなく「調教師になって勝つしかない」とも考えたことがあったという。 2012年4着ワールドエース(左端青帽) 2013年2着エピファネイア(左奥黄帽) 2017年夏、祐一はワグネリアンの新馬戦に騎乗する前日に、キセキに騎乗して500万円以下を優勝し、史上8人目、武豊に次いで史上2番目のスピードでJRA通算2000勝を達成している。その直後の記録達成の催しでは、今後の目標を訊かれ、答えようとした直前に、観客席から「ダービー」の声が飛び「そう、ダービーですね」と発言していた。その翌日にワグネリアンで2001勝目を挙げ、その次のダービーで戴冠を果たしている。祐一は、ダービーの決勝線を先頭で駆け抜けてから、ウイニングランを行い退場する際のスタンド前で涙を流している。勝利して涙を見せたのは、祐一の師匠・北橋修二調教師の管理馬マルカコマチで1999年京都牝馬特別を優勝して以来2度目のことだった。福永は「人のことで感動したり、心が震えることはあっても、自分の成し遂げたことで感動したのは初めて。涙が出るなんて思ってもなかった。こんな経験は初めて」と振り返っている。 夢にまで見たけど、これがダービーを勝ったジョッキーの景色かと。父に代わって目に焼き付けました。ようやく福永洋一の息子として誇れる仕事ができた。いい報告ができます。福永家にとっての悲願でしたから — 福永祐一 福永がレース後のインタビューで発言したこの一文は、「福永家の悲願」として各所で報じられた。滋賀県の自宅にいた洋一はテレビ観戦で優勝を見届けていたという。ダービー戴冠までに19戦を要したのは、1993年ウイニングチケットで優勝した柴田政人に並ぶ、史上最多記録だった。
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