普仏戦争 開戦~フランス軍の侵攻

普仏戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 01:16 UTC 版)

開戦~フランス軍の侵攻

両軍の初動

フランスによる対プロイセン宣戦布告は7月19日だったが、閣議決定は7月14日であり、15日早朝には総動員令が下された[13]。7月15日夕方には、北ドイツ連邦主席であるプロイセン国王ヴィルヘルム1世も、同様に総動員令を下令し、南独諸邦も同盟により16日以降総動員体制を取った[14]

一見すると、先行したフランスが有利のようだが、前述の通り、両国の実際の動員可能兵力数は、プロイセンが有利であった。

プロイセン軍の配置は、次の通りだった[15]

フランスがベルギー及びルクセンブルクを侵犯する可能性は無いと考え、メス(独:メッツ)~ストラスブール(独:シュトラースブルク)間での戦闘が予想された[15]。そこで、第1軍はトリーアザールブリュッケン→メス、第3軍はシュパイアー→ストラスブールを、そして第2軍はマインツを起点に1・3軍の中間で両者と連携することが計画された[15]

フランス軍は確固とした戦闘計画はなかった[15]。およその配置は次の通り[16]

フランス軍の攻勢

プロイセン(長方形)、フランス(半円)両国軍の布陣(1870年7月31日)

1870年7月28日、ナポレオン3世はメスに向けてパリを出発した。ナポレオン3世は新たに編成したライン軍の総司令官となった。ライン軍は兵力202,448人で、フランス軍の動員が進むにつれて兵力は更に増える予定であった[17]マクマオン元帥は第1軍(4個歩兵師団)を率いてヴィサンブールへ、カンロベール元帥は第6軍(4個歩兵師団)を率いて北フランスのシャロン=アン=シャンパーニュへ向かった。第6軍は予備兵力の役割を担いつつ、ベルギーからのプロイセン軍の侵入を警戒する役割であった。

フランス側の戦争計画は、戦争前に故アドルフ・ニール元帥が描いたもので、ティオンヴィルからトリーアに向けて強力な攻勢に出て、そこからプロイセンのラインラントへ侵入するという計画であった。この計画は、防御的な作戦を志向するフロサール将軍(Charles Auguste Frossard)やルブラン将軍(Bartélemy Lebrun)らによって破棄された。彼らはライン軍をドイツ国境付近で防御態勢にして、プロイセンの攻勢を撃退する計画を考えていた。オーストリアはバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンとともにプロイセンへの(普墺戦争に対する)報復戦争に加わると見込まれるから、第1軍はプファルツ選帝侯領に侵攻し、そこから南ドイツ諸国を自由に通過させてもらいつつ、オーストリア・ハンガリー軍と協調して進撃し、第6軍は必要に応じていずれかの軍への増援に回すつもりであった。[18]

しかしながら、フロサール将軍の計画には早くもほころびが見え始めた。プロイセン軍の動員はフランス側の予測よりも遥かに急速に進んでいた。また、オーストリア・ハンガリー軍は普墺戦争においてプロイセン相手に敗北した痛手からまだ抜け出せておらず、南ドイツ諸国がフランス側に協力的な立場をとった場合にのみ参戦するという方針で、注意深く事態を見守っていた。結局、南ドイツ諸国がプロイセン側に立ち、フランスに対して軍を動員し始めたため、オーストリア・ハンガリーがフランス側に立って参戦する構想は実施されなかった[19]

仏軍によるザールブリュッケン占領

ザールブリュッケン
捕虜となったバイエルン兵を見張るフランスの槍騎兵胸甲騎兵
(画)エドゥアール・デタイユ

ナポレオン3世はモルトケの全軍の動員・配備が完了する前に攻勢を掛けるよう国内から大きな圧力を受けていた。フロサール将軍による偵察では、ライン軍のすぐ前方にある国境の町ザールブリュッケンを警備するプロイセン第16歩兵師団を確認したのみであり、このため、ライン軍はザールブリュッケンの占領を企図して7月31日ザール川に向けて進軍した[20]

一方、プロイセン側は偵察活動により、フランス軍主力がメス東方にあり、アルザスが手薄であることを知るや、予備軍を第2軍に投入し、第1・2軍で仏主力の攻撃を計画した[21]

フロサール将軍の第2軍とバゼーヌ元帥の第3軍は8月2日ドイツとの国境を越え、ザールブリュッケンのプロイセン第16歩兵師団第40連隊に一連の直接攻撃を掛け始めた。ザールブリュッケン周辺での小競り合いでは、フランスのシャスポー銃がプロイセンのドライゼ銃に対して優位に立ち、フランスの小銃手は一様にプロイセンの小銃手の射程圏外から攻撃できた。

しかしながら、プロイセン軍は頑強に抵抗し、両軍の損害はプロイセン軍83名に対してフランス軍86名であった。ザールブリュッケンは兵站の面でみても大きな障害であることが分かった。ザールブリュッケンからのびる鉄道だけがドイツの後背地域へと続いているが、ザールブリュッケンは一軍を以て容易に守備でき、かつまたこの地域で唯一の河川は国境に沿って流れている[22]

プロイセン主力が未だ到着しておらず、プロイセンはこの街を明け渡さざるを得なかった[21]。普仏戦争を通じ、最初に国境を超えたのはフランスであり、またこれがフランスにとって最初で最後の勝利となった[21]

プロイセン軍の反撃準備

この勝利がラインラント、ひいてはベルリンへ向かう第一歩だ、とフランス本国で声高に叫ばれていたその頃、ルブーフ将軍(Le Bœuf)とナポレオン3世は、外国ニュースメディアからプロイセン軍とバイエルン軍がザールブリュッケンの南東方面に集結しており、さらに北方面や北東方面にも軍が集結しているとする警戒すべき報告を受け取っていた[23]

実際にモルトケはそれら三つの地域に軍を集結させていた。すなわち、ザールルイに面する場所にカール・フォン・シュタインメッツ将軍率いるプロイセン第1軍5万人、フォルバックからスピシュランまでの線に面する場所にフリードリヒ・カール王子率いるプロイセン第2軍13万4000人、そしてフリードリヒ王太子率いるプロイセン第3軍12万人はヴィサンブールにて国境を越える用意を整えていた[24]


注釈

  1. ^ a b 同日は、1701年にプロイセン王国が成立した、プロイセン史及びドイツ史における重要な日付であった。後に、第一次世界大戦によるドイツ敗北後のパリ講和会議は、報復的に1919年の同日から開催されている。
  2. ^ マクシミリアンは、1867年6月19日に銃殺刑に処された。ベルギー王女である皇后シャルロットも発狂している。
  3. ^ 当時『ラインの守り』という愛国歌が、広く人気を博していた。
  4. ^ ギ・ド・モーパッサンの短編「二人の友」(Deux Amis 英語解説)によれば「屋根の雀もめっきり減り、下水の鼠もいなくなった。人々は食べられるものなら何でも食べた」(青柳瑞穂訳)という状態で魚釣りに行った二人の悲劇を描いている。
  5. ^ サルデーニャ王国(統一イタリア王国)の宰相カミッロ・カヴールのいとこであり、ヴィルヘルム1世の王妃アウグスタ・フォン・ザクセンなどの各国王侯貴族とその係累、後にフランス第三共和政の初代大統領となるアドルフ・ティエールなども知人であり、さらにはビスマルクとも旧知であった。

出典

  1. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508/ 2020年12月3日閲覧。 
  2. ^ 『詳説世界史』(山川出版社。2002年4月4日 文部科学省検定済。教科書番号:81山川 世B005)p 229
  3. ^ Ran Aharonson Rothschild and Early Jewish Colonization in Palestine Rowman & Littlefield Publishers 2000 p.53. 注1
  4. ^ Howard 1991, p. 40.
  5. ^ Howard 1991, p. 45.
  6. ^ von Bismarck 1898, p. 58.
  7. ^ a b Britannica: Franco-German War.
  8. ^ Howard, 1991 & 41.
  9. ^ Wawro 2003, pp. 28–30.
  10. ^ a b c d e 林 1967 p74
  11. ^ 林 1967 p74-75
  12. ^ a b c 林 1967 p75
  13. ^ 林 1967 p73
  14. ^ 林 1967 p73-74
  15. ^ a b c d 林 1967 p77
  16. ^ 林 1967 p77-78
  17. ^ Howard 1991, p. 78.
  18. ^ Wawro 2003, pp. 66–67.
  19. ^ Howard 1991, pp. 47, 48, 60.
  20. ^ Wawro 2003, pp. 85, 86, 90.
  21. ^ a b c 林 1967 p78
  22. ^ Wawro 2003, pp. 87, 90.
  23. ^ Wawro 2003, p. 94.
  24. ^ Howard 1991, p. 82.
  25. ^ Wawro 2003, p. 95.
  26. ^ Howard 1991, pp. 100–101.
  27. ^ Howard 1991, p. 101.
  28. ^ Wawro 2003, pp. 97, 98, 101.
  29. ^ Wawro 2003, pp. 101–103.
  30. ^ Howard 1961, pp. 101–103.
  31. ^ a b 林 1967 p79
  32. ^ Howard 1991, pp. 87–88.
  33. ^ 林 1967 p79-80
  34. ^ Howard 1991, pp. 89–90.
  35. ^ Howard 1991, pp. 92–93.
  36. ^ a b 林 1967 p80
  37. ^ Howard 1991, pp. 98–99.
  38. ^ Howard 1991, p. 116.
  39. ^ a b c d 林 1967 p81
  40. ^ a b c 林 1967 p83
  41. ^ 林 1967 p83-84
  42. ^ a b c d 林 1967 p84
  43. ^ 林 1967 p84-85
  44. ^ 1870年9月17日のIllustrated London News誌掲載の挿絵
  45. ^ Craig 1980, p. 31.
  46. ^ Ridley 1976, p. 602.
  47. ^ イリュストラシオン・ユーロピエンヌ 1870, N° 48, p. 381.J.フェラ
  48. ^ Richard Holmes, Falling Upwards: London: Collins, 2013, p. 260
  49. ^ No. 1132: The Siege of Paris”. www.uh.edu. 2016年3月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月7日閲覧。
  50. ^ Hope”. ウォルターズ美術館. 2013年8月2日閲覧。
  51. ^ Rustow & Needham 1872, p. 229–235.
  52. ^ Wawro 2003, pp. 190–192.
  53. ^ a b Wawro 2003, p. 192.
  54. ^ Maurice & Long 1900, pp. 587–588.
  55. ^ Rustow & Needham 1872, p. 243.
  56. ^ van Creveld 1977, p. 96.
  57. ^ Howard 1991, p. 23.
  58. ^ a b Irvine 1938, p. 192.
  59. ^ Howard 1991, pp. 23–24.
  60. ^ Holborn 1942, p. 159.
  61. ^ Howard 1991, pp. 19–20.
  62. ^ Howard 1991, p. 21.
  63. ^ McElwee 1974, p. 46.
  64. ^ Howard 1991, p. 68.
  65. ^ Howard 1991, pp. 70–71.
  66. ^ Howard 1991, pp. 35–36.
  67. ^ Taylor 1988, p. 133.
  68. ^ Varley 2008, pp. 152?202.
  69. ^ Bailey 2004, pp. 218–219.
  70. ^ a b Howard 1961, pp. 156–157.
  71. ^ Bailey 2004, p. 218.






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