普仏戦争
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影響
普仏戦争の講和条約は、1871年2月に仮条約がヴェルサイユで結ばれ、1871年5月10日のフランクフルト条約で正式に調印された。これによりフランスは東部のドイツ系住民居住地域であるアルザス=ロレーヌ地方3県を失い(1919年までドイツ帝国直轄領エルザス=ロートリンゲン州)、50億フランの賠償金の支払いを義務付けられた。またフランス領内に進駐していたプロイセン軍は1873年9月まで駐留することが決定された。
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普仏戦争の後、列強の一つ、統一ドイツ帝国が誕生することになる。戦後の国際外交はビスマルクの思惑通り進み、1873年、ドイツ帝国はロシア、オーストリア両帝国と三帝同盟を結ぶなど、フランスの外交的孤立化が進んだ。また戦争の余波で、ローマ教皇領はフランスからの軍事的保護を失い、普仏戦争中の1870年9月20日、イタリア王国軍によって占領された。
この戦争によりヨーロッパ大陸部におけるフランス優位は崩れ、ドイツはヨーロッパの覇権を目指して邁進することになる。そして、次にヨーロッパを中心に行われた戦争は、世界を一変させることになる1914年に開戦した第一次世界大戦である。
プロイセンの対応と撤退
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2月17日にプロイセン軍がパリで簡素な戦勝パレードを行った後、ビスマルクは休戦を履行して食糧の貨物列車をパリに送り、プロイセン軍はパリ市の東へ退いた。プロイセン軍はフランスが50億フランの戦争賠償金の支払いに同意すれば直ちに撤退することになっていた[66]。それと同時に、プロイセン軍はフランスから撤退してアルザス=ロレーヌ地方に集結した。主に中間層の約20万人の市民がパリを離れて地方へ向う大移住が起こった。
敗戦に対するフランスの対応
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国防政府の下で実施された国民議会選挙の結果、きわめて保守的な政府が出来上がった。当時の政治風潮により、パリに首都を設置するには危険過ぎたため、国民議会により選出されたアドルフ・ティエール大統領の下で、政府はヴェルサイユに設置された。この新政府は主に保守的な中流階級の地方政治家で構成されており、パリ市民を激怒させる様々な法律を通過させた。たとえば、異論の多かった「満期法」では、1870年9月以降延期されてきたパリ市内の賃料と、1870年11月以降支払い猶予されてきたフランス全国の全ての公債は、48時間以内に全額利息付きで返済せねばならないと命じた。パリは不相応に巨額の賠償金をプロイセンに支払う重荷を背負っているため、パリ市民は程なくしてヴェルサイユ政府に憤慨するようになった。パリは革命主義的な国民衛兵と、市内の幾らかの正規兵で防衛されている中、左翼のリーダーたちはパリ市庁舎(オテル・ド・ヴィル)に拠点を構えてパリ・コミューンを設置した。ヴェルサイユ政府はパリ・コミューンを鎮圧し、2万人の死者が出て、パリ市街の一部が焼失した。
フランスの小説家ギ・ド・モーパッサンは当時20歳で国民遊撃隊員だった。彼は後にこの戦争を題材にした小説『脂肪の塊』を発表する。
フランクフルト講和条約は、ドイツにストラスブール、メス要塞を渡す事に加え、アルザスおよびロレーヌ北部(モゼル県)をドイツ領土とし、両方(特にアルザス)ともにドイツ系住民が多数派の地域で、フランスの鉄鉱山の80%と機械工場群を含んでいた。この地域を失った事は、フランスの怨恨の源泉としてあり続け、第一次世界大戦に際してアルザス=ロレーヌを奪還するかどうかの国民投票を行ったフランスでは国民の支持につながった。こうした「Revanchism」(復讐主義)がドイツとフランスの間の緊張を永続的なものとし、それも第一次世界大戦の遠因の一つとなった。
戦後、地方で戦争記念を行う動きが広がった。戦争で亡くなった人々を偲んで戦争記念碑がフランス各地に建立された。マルス・ラ・トゥール(Mars-la-Tour)、バゼイユ(Bazeilles)、ベルフォール(Belfort)の戦争記念碑が著名である[67]。
1890年代、この戦争の影響から発展してドレフュス事件が起こった。フランスの軍事防諜機関の情報員によって、パリのドイツ大使館のゴミ箱の中からフランスの軍事機密が発見され、アルザス生まれでユダヤ人のフランス軍大尉アルフレド・ドレフュスがこの事件の犯人に仕立て上げられ、反逆罪により終身禁固刑を宣告された。彼は最終的に無実を晴らして1900年に釈放された。
パリ・コミューン
パリ・コミューンは、1871年3月18日から同年5月28日までの短期間パリを支配した政権である。3月28日にパリ・コミューンが宣言されたが、プロイセンの支援を得たヴェルサイユ政府軍により5月28日に鎮圧された。パリ・コミューンはフランス敗戦後のパリにおける決起の結果として成立した。この決起は主に戦災とフランス労働者の間の不満が鬱積した結果であった。産業革命時代で労働者階級が初めて政権を取った事例と認められている。
ドイツ統一
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(画)アントン・フォン・ヴェルナー
統一ドイツ帝国の成立により、ナポレオン戦争後のウィーン会議で決められた「パワー・バランス」は終わりを告げた。ドイツは世界最強の常備陸軍を備えたヨーロッパ大陸の主要強国として急速に台頭し、脅威とみなされて敵視されるようになった。
当時の国際社会では大英帝国が世界最強の地位を保っていたが、19世紀後半のイギリスはヨーロッパ大陸の問題にはあまり関わらなかった(栄光ある孤立)ので、ドイツはヨーロッパ大陸において大きな影響力を振るう事が出来た。その影響力がヨーロッパ大陸から海外へと拡大し、イギリスの国益に抵触し始めたことも、第一次世界大戦の一因となった。
なお、当時のイギリスのハノーヴァー朝は元々ドイツ貴族(ハノーファー)の家系であったが、プロイセンの王家であるホーエンツォレルン家との関係はフリードリヒ大王の時代以降はほぼなく、イギリスのヴィクトリア女王の長女ヴィクトリアと、プロイセンのフリードリヒ王太子の結婚だけが顕著なものであった。
そして両者の子ヴィルヘルム2世は、独英が全面対決する第一次世界大戦とドイツ帝国終焉の当事者となる。
軍事思想への影響
普仏戦争での出来事はその後の40年間の軍事思想に多大な影響を与えた。この戦争から引き出された戦訓としては、参謀幕僚制の必要性、将来の戦争の規模や期間の見通し、砲兵や騎兵の戦術的使用などがあげられる。
国民皆兵制を採ったプロイセンが圧勝したことにより、他国も国民皆兵に追従することとなる。日本やロシアも普仏戦争の結果を見て国民皆兵制を採用した。
プロイセン軍は、遠距離でまずフランス軍砲兵を沈黙させ、その上で近距離でも歩兵攻撃を直接支援するため、砲兵を積極的に使用した。この用兵はフランス軍砲兵が採用していた防御的な用兵に比べて優れていたことが結果的に証明された。
プロイセン軍の戦術は(第一次世界大戦の勃発した)1914年までにはヨーロッパ各国の陸軍で採用された。たとえばフランスのM1897 75mm野砲は前進する歩兵を直接火力支援するために最適化された大砲である。1904〜1905年の日露戦争において、新しい無煙火薬を採用した小銃を装備した歩兵は砲兵に対して有効に戦えるという証拠があったが、多くのヨーロッパ諸国の陸軍はそれを無視していた。小銃の射程が伸びたことにより、砲兵はより遠距離から間接射撃を行わざるをえず、隠れた地点から間接射撃を行うのが普通になっていった[68]。
マルス・ラ・トゥールの戦いにおいて、アーダルベルト・フォン・ブレドウ(Adalbert von Bredow)将軍が指揮するプロイセン軍第12騎兵旅団は、フランス軍砲列に対して突撃を行った。この攻撃は大損害を出しつつも成功したため、「フォン・ブレドウの決死の騎行」(von Bredow's Death Ride)として知られるようになり、戦場で騎兵突撃がなお優勢であることを示す事例とされた。しかし、第一次大戦の1914年の戦場では、伝統的な騎兵の使用は大損害を受けるだけであることが証明された。これは、小銃・機関銃・大砲の射撃が正確になり、なおかつ射程も伸びたためである[69]。
フォン・ブレドウの攻撃は、突撃の直前に非常に有効な味方の砲撃があり、なおかつ、地形のおかげで敵に気付かれずに接近できたために成功しただけであった[70][69]。
注釈
- ^ a b 同日は、1701年にプロイセン王国が成立した、プロイセン史及びドイツ史における重要な日付であった。後に、第一次世界大戦によるドイツ敗北後のパリ講和会議は、報復的に1919年の同日から開催されている。
- ^ マクシミリアンは、1867年6月19日に銃殺刑に処された。ベルギー王女である皇后シャルロットも発狂している。
- ^ 当時『ラインの守り』という愛国歌が、広く人気を博していた。
- ^ ギ・ド・モーパッサンの短編「二人の友」(Deux Amis 英語解説)によれば「屋根の雀もめっきり減り、下水の鼠もいなくなった。人々は食べられるものなら何でも食べた」(青柳瑞穂訳)という状態で魚釣りに行った二人の悲劇を描いている。
- ^ サルデーニャ王国(統一イタリア王国)の宰相カミッロ・カヴールのいとこであり、ヴィルヘルム1世の王妃アウグスタなどの各国王侯貴族とその係累、後にフランス第三共和政の初代大統領となるアドルフ・ティエールなども知人であり、さらにはビスマルクとも旧知であった。
出典
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