普仏戦争
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双方の軍事力
フランス軍
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フランス軍は約40万人の常備兵で構成されており、その内の幾らかはクリミア戦争、アルジェリア戦役、イタリアでのオーストリアとの戦争、メキシコ出兵などを経験した歴戦の古参兵たちであった。
フランスは、国民皆兵による徴兵制の元祖とも言える国だったが、成年男子のうち少数が服するにすぎず、富裕層は金銭によって代理を立てることもできた[9]。徴兵期間は7年と長い一方、予備役も後備役も無かったため、一般国民との遊離が顕著だった[9]。ナポレオン3世は、1867年、アドルフ・ニールにこの制度を改革させ、現役5年予備役4年とし、さらに兵役以外の者で「遊撃軍」を編成した[9]。しかし、立法院の反対により、「遊撃軍」は有名無実化してしまっていた[9]。1869年、後任のエドモン・ルブーフは、制度の不評のため改革を有効に実施できなかった[9]。ルブーフは、数日で30万人を動員できると試算したが、輸送力や兵站の致命的欠陥により、実際は20万人未満だった[10]。
歩兵は、当時の世界で量産されていた火器としては最新式といえる後装式のシャスポー銃を装備していた。ガス漏れ防止ゴムリングと小さめの弾丸を採用したことにより、シャスポー銃の最大有効射程は約1500mであり、装填時間も短かった。砲兵はライフリングを施した前装式のライット4砲(弾丸重量4kg)を装備していた。それに加えて、フランス軍は機関銃のさきがけともいえるミトラィユーズを装備していた。ミトラィユーズは大量の火力を集中できる強力な兵器であったが、射程が短い事と比較的機動性が低い事が欠点で、このため容易に撃破されがちだった。ミトラィユーズは砲架の上に取り付けられ、野砲と同じように砲兵隊の中に組み入れられた。フランス軍は名目的にはナポレオン3世がフランソワ・アシル・バゼーヌ、パトリス・ド・マクマオン、ルイ・ジュール・トロシュらの元帥とともに率いていた。
フランス軍事顧問団を脱走して旧幕府軍と共に戦った後、帰国したウージェーヌ・コラッシュとアンリ・ニコールは脱走の罪で海軍を退官させられていたが、普仏戦争では陸軍の兵士として参加している。
プロイセン軍
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プロイセン軍は常備兵ではなく徴兵で構成されていた。兵役は兵役年齢の男子全員の義務とされ、これによりプロイセン、およびその北ドイツ、南ドイツの同盟国は戦場に約120万人の兵士を動員可能であった。これだけの大兵力を使えることは、敵軍を包囲殲滅する上で有利であった。
プロイセン軍はケーニヒグレーツの戦いで名声を得た「針打式」のドライゼ銃をいまだに装備していたが、既に設計から25年も経っていた。しかしながら、プロイセン軍の砲兵隊には鋼鉄製で後装式のクルップC-64野砲(弾丸重量3kg)が供給されており、これはドライゼ銃の欠点を補って余りあるものがあった。亜鉛玉と爆発物を詰めた接触雷管(contact-detonator)式の弾丸を発射するクルップ砲は、射程4500mで、フランスの青銅製の前装砲よりも猛烈な発射速度を誇っていた。
プロイセン軍はヘルムート・フォン・モルトケ元帥とプロイセン参謀本部が指揮した。プロイセン陸軍はその当時のヨーロッパで唯一の参謀本部を持つという点で独特であった。参謀本部の任務は、作戦行動を指揮すること、兵站・通信を組織すること、および戦争全体の戦略を練ることであった。1866年夏の普墺戦争を踏まえ、1867年冬にはモルトケによる対仏作戦計画が完成していた[11]。プロイセン参謀本部は、フランスの地域特性(地図や鉄道網)をフランス人より熟知していた[11]。
実務面でも、プロイセン陸軍は他のどの国の陸軍よりも参謀長が重要な役割を担っており、参謀長は直接の上官と意見が異なる場合、その上の司令官へ直接上訴する権限を与えられていた。このため、例えば、プロイセン王太子も、彼の参謀長であるレオンハルト・フォン・ブルーメンタール少将の助言に反する行動をとることはできなかった。なぜなら、参謀長が(この場合は王太子の上官である)父・国王に直接上訴する事を恐れたからである。
こうした、組織力と機動力、そして周到な準備により、38万人の兵力を18日間で動員し、さらに9万の兵力を対オーストリア用に温存していた[11]。
比較
フランスは既に強力な常備軍を備えている一方で、プロイセンと他のドイツ諸国は徴兵による軍隊を動員するために数週間はかかるであろうから、フランスは開戦当初においては兵力と実戦経験の面で優位に立っていた。フランスの戦術はシャスポー銃を使って塹壕戦を防御的に戦う事を重視していたが、ドイツ軍の戦術は包囲の形勢を作ることと、可能な限り常に砲兵を攻撃的に用いることを重視していた。
開戦前の国際関係
この戦争を予測していたプロイセンは普墺戦争の後にフランスへ向けて鉄道線路を6本引いていた(フランスはプロイセンに向け1本)。それに加え情報将校を戦場の舞台になるであろうフランス東北部に派遣、観光客にまぎれこませ偵察させ地図を作成するなど周到な準備を整えていた。また北ドイツ連邦加盟の領邦諸国は、プロイセンが先に宣戦布告された場合には協力するとの条約に基づき参戦した。また、他国の介入を防ぐためにロシア(露土戦争における好意的な中立と、戦争の結果排除された黒海艦隊の再建を認める)、オーストリア(普墺戦争における好意的な戦争処理の追求)、イタリア(フランス領土内の未回収のイタリアの回収を認める)、イギリス(栄光ある孤立の追求)といった国々に事前に根回しをしていた。
これに対しフランスはメキシコ帝国計画が失敗した際に、ハプスブルク家から迎えた皇帝マクシミリアンを見捨てて撤退した[注釈 2]ことでオーストリアから大きな恨みを買っており、支援を得られなかった。
注釈
- ^ a b 同日は、1701年にプロイセン王国が成立した、プロイセン史及びドイツ史における重要な日付であった。後に、第一次世界大戦によるドイツ敗北後のパリ講和会議は、報復的に1919年の同日から開催されている。
- ^ マクシミリアンは、1867年6月19日に銃殺刑に処された。ベルギー王女である皇后シャルロットも発狂している。
- ^ 当時『ラインの守り』という愛国歌が、広く人気を博していた。
- ^ ギ・ド・モーパッサンの短編「二人の友」(Deux Amis 英語解説)によれば「屋根の雀もめっきり減り、下水の鼠もいなくなった。人々は食べられるものなら何でも食べた」(青柳瑞穂訳)という状態で魚釣りに行った二人の悲劇を描いている。
- ^ サルデーニャ王国(統一イタリア王国)の宰相カミッロ・カヴールのいとこであり、ヴィルヘルム1世の王妃アウグスタなどの各国王侯貴族とその係累、後にフランス第三共和政の初代大統領となるアドルフ・ティエールなども知人であり、さらにはビスマルクとも旧知であった。
出典
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月3日閲覧。
- ^ 『詳説世界史』(山川出版社。2002年4月4日 文部科学省検定済。教科書番号:81山川 世B005)p 229
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