普仏戦争
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フランスとプロイセンの海軍の活動
普仏戦争開戦に際して、フランス政府は海軍に北ドイツ沿岸の海上封鎖を命じた。北ドイツ連邦海軍(Norddeutsche Bundesmarine)は比較的小規模で、有効な反撃はできなかった。にもかかわらず、パリの作戦部門の決定的な不手際により、海上封鎖は部分的にしか成功しなかった。戦争勃発に備えて戦闘準備を整えているはずの徴募兵はニューファンドランドの漁業やスコットランドにおいて活用されていたため、兵力が少なかった。このため、470隻のフランス海軍のごく一部だけが1870年7月22日に出港した。間もなく、フランス海軍は石炭不足に苦しむようになった。ヴィルヘルムスハーフェン封鎖の失敗、そしてバルト海へ進出するか否か、またはフランスに戻るかについて命令が混乱したことなどから、フランス海軍の活動は効果が挙がらなかった[50]。
アルザス=ロレーヌ地方に対して想定されるドイツ軍の攻撃の圧力を緩和するため、ナポレオン3世らフランス軍指導部は開戦劈頭にドイツ北部に上陸作戦を行うことを計画した。これにより、ドイツ軍部隊を前線から逸らすばかりでなく、デンマークを刺激することにより、5万人のデンマーク陸軍と実力あるデンマーク海軍の支援を取り付けることも期待していた。しかしながら、少し前にプロイセンが手強い防御施設を北ドイツの主要港の周囲に設置していたことが分かった。それにはクルップ重砲による沿岸砲も含まれており、3700メートルの距離からフランス軍艦を砲撃出来る。フランス海軍はこれらの沿岸防御に対抗するために必要な重砲を備えていなかったことに加えて、プロイセンの海岸(ワッデン海)は上陸作戦の難しい干潟であるため、北ドイツへの上陸作戦は不可能であった[51]。
北ドイツへの侵攻に当たる予定だったフランス海兵隊(Troupes de marine)および海軍陸戦隊は、結局シャロンのフランス陸軍の梃入れに回され、スダンの戦いでナポレオン3世と共に捕虜になった。メス攻囲戦とスダンの戦いにおいて、フランス陸軍の職業軍人の殆どが捕虜になり、陸軍将校がかなり不足したため、海軍士官が船を下りて陸に上がり、慌ただしく召集された「Garde Mobile」やフランス陸軍予備役部隊の将校に任命された[52]。
北海の秋の嵐によって、警備のために残っていたフランス海軍の艦艇も大きな被害を受け、海上封鎖の効果は日に日に薄れていった。1870年9月までに海上封鎖は最終的に放棄され、冬の間は全く行われず、フランス海軍はイギリス海峡沿岸の港まで退却し、戦争終結まで港内に停泊し続けた[52]。
フランス軍艦とドイツ軍艦の交戦は他の海域で散発的に発生した。例えば、日本の長崎でフランス海軍のデュプレクスがドイツ海軍の「ヘルタ(Hertha)」を海上封鎖した[53]。また、1870年11月のハバナの戦いではキューバのハバナ沖でプロイセンの「メテオール(Meteor)」とフランスの「ブーヴェ(Bouvet)」が砲艦同士の戦闘となった[54]。
注釈
- ^ a b 同日は、1701年にプロイセン王国が成立した、プロイセン史及びドイツ史における重要な日付であった。後に、第一次世界大戦によるドイツ敗北後のパリ講和会議は、報復的に1919年の同日から開催されている。
- ^ マクシミリアンは、1867年6月19日に銃殺刑に処された。ベルギー王女である皇后シャルロットも発狂している。
- ^ 当時『ラインの守り』という愛国歌が、広く人気を博していた。
- ^ ギ・ド・モーパッサンの短編「二人の友」(Deux Amis 英語解説)によれば「屋根の雀もめっきり減り、下水の鼠もいなくなった。人々は食べられるものなら何でも食べた」(青柳瑞穂訳)という状態で魚釣りに行った二人の悲劇を描いている。
- ^ サルデーニャ王国(統一イタリア王国)の宰相カミッロ・カヴールのいとこであり、ヴィルヘルム1世の王妃アウグスタなどの各国王侯貴族とその係累、後にフランス第三共和政の初代大統領となるアドルフ・ティエールなども知人であり、さらにはビスマルクとも旧知であった。
出典
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月3日閲覧。
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