普仏戦争 ドイツの勝因

普仏戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 13:51 UTC 版)

ドイツの勝因

ドイツ軍がフランス軍に対して、最初から最後まで常に主導権を握り、短期間で勝利を収めたことに、他の国々は度肝を抜かれた。多くの国がフランスの勝利を予測しており、殆どの国は少なくとも長期戦になるだろうと予測していた。ドイツ側の有していた戦略的優位性は、戦争が終結するまでその真価がドイツ以外では認識されていなかったのである。

他の国々はドイツがその軍事制度によって優位に立ったことをすぐに認識し、ドイツの革新的な軍事制度、中でも特に参謀幕僚制、国民皆兵、そして高度に精緻化した動員システムなど多くを採用した[56]

参謀幕僚制

モルトケが作り出したプロイセン参謀本部は、伝統的なフランス式軍制と比べて非常に有効であることが証明された。これは主に、プロイセン参謀本部は以前のプロイセン軍の作戦を研究し、過去の失敗から学ぶために作られたためである。また、広大な範囲に広がった大きな陣形を統御するモルトケの能力によって組織機構は大いに強化された[57]。参謀総長は事実上のプロイセン陸軍総司令官であり、国防大臣から独立し、国王の命令のみに服した[58]。フランスの参謀本部は、他の欧州諸国の軍と同様に、部隊指揮官の補佐役の集団より若干ましという程度のものであった。こうした無秩序な状態は、フランス軍指揮官が自らの部隊を制御する能力を阻害していた[59]。また、戦時に師団や軍団を編成していたフランス軍では、高級士官達は自身が指揮する部隊やそれを支える幕僚のことが一切わからず、戦いながら把握していかなければならなかった。

それに加えて、プロイセンの軍事教育制度はフランス式よりも優れていた。プロイセンの参謀将校は、自ら率先し、独立して考えるよう訓練されていた。それこそが正にモルトケの求める参謀であった[60]。一方、フランス軍では、教育制度と昇進制度において、知性の発達を窒息させるような欠点を持っていた。軍事史家Dallas Irvineによれば、その制度は「陸軍の頭脳能力を参謀や高級将校から排除する上で、ほぼ完璧な有効性を持っていた。フランスの軍事政策における数々の弁解不能な欠陥は、すべてその制度の結果として生じたトップの思考力の欠如に帰する事が出来る[58]

国民皆兵

1859年から1873年までプロイセン国防大臣を務めたアルブレヒト・フォン・ローンは、1860年代にプロイセン軍制に一連の改革を実施したが、その中でも二つの大きな改革によってその軍事力は実質的な増強を見るに至った。正規軍と事実上の予備役であるラントヴェーアを統合する陸軍再編と[61]、動員令を発した場合には兵役年齢以上の男性全員を徴兵する国民皆兵がそれである[62]。この結果、普仏戦争に参戦したドイツ諸邦の合計人口はフランスの人口をおよそ600万も下回っていたにもかかわらず、兵力においてはフランスのそれをおよそ5万上回る動員が可能となったのである。

普仏戦争開戦時の全人口と動員兵力比較
(単位:人)
全人口 動員兵力
フランス 約3800万 約50万
ドイツ諸邦 約3200万 約55万

動員制度

普仏戦争勃発時、462,000人のドイツ軍が完璧にフランスの前線に送り込まれた一方、フランス軍は270,000人しか前線に送り込めなかった。フランス軍では、ずさんな計画と管理のために、まだ一発の銃弾も発射されない内から、既に100,000人の兵を活用できない状態になっていた[63]。その理由の一部は平時の軍の編制にある。プロイセン軍の各軍団は「クライス」(Kreis。文字通り訳すと「円」)内の主要都市周辺に基地があり、連隊基地へ行くのに1日以上旅行せねばならない場所に住んでいる予備役兵はほとんどいなかった。対して、フランス軍の平時における最大の集合単位を「連隊」とし駐屯地を二年ごとに移動していた。これは革命が相次ぎ、軍が反乱軍となるのを恐れた帝国政府が軍を民衆から隔離しようとしたためだった。従って連隊は自らの兵を徴募する地域には駐屯していなかった。このため応召兵はまず数日旅行して所属連隊の補給処に出頭して、それから更に長旅を経て所属連隊の駐屯地へ向わなければならないということがしばしばあった。鉄道駅は多くの応召兵で埋め尽くされ、無為に軍糧と命令を待つばかりであった。実際に戦争開始時において歩兵100個連隊中65個連隊が補給厰から遠く離れた駐屯地にいた[64]

こうした平時の編制の違いが、戦争前の準備の違いによって更に際立たせられた。プロイセン参謀本部は、鉄道網を活用した分刻みの動員計画を用意しており、しかもその鉄道網の一部は参謀本部鉄道課の勧告に従って敷設されたものであった。一方、フランスの鉄道網は、複数の民間鉄道事業者が競争する中で、純粋に商業的な理由により敷設され発展してきたもので、アルザス=ロレーヌの前線に向かう移動は、多くの場合、大幅な迂回や頻繁な乗り換えを必要とした。更に、軍が列車を統制する仕組みが全くなく、将校が適当だと考えた列車を単純に徴用して使っていた。操車場は兵を載せた貨車で埋め尽くされて身動きが取れなくなり、兵を下車させたり、正しい目的地へ出発させたりする事について責任を負う者は誰もいなかった[65]

フランスの外交的孤立

普墺戦争終結後、プロイセンはドイツ南部諸国と攻守同盟を結んだ。エムス電報事件の結果フランスがプロイセンへ宣戦したため、ドイツ南部諸国は盟約に基づいてプロイセン側に立って参戦する理由が生じた。更に、エムス電報事件はドイツ民族としてのナショナリズムを刺激した。南ドイツ諸国でもプロイセン側に味方すべきとの世論が高まった。結果として、南ドイツ諸国は速やかにプロイセン側に立って参戦した。

オーストリア=ハンガリー帝国デンマークは、数年前にプロイセン相手に敗戦したことに対して復讐したいと考えてはいたが、フランスを信用できないことや、ドイツ南部諸国が早々にプロイセン側に立って参戦したこともあって、結局両国とも不干渉の立場を取った。

イタリア王国は当初参戦に乗り気で、13万規模の遠征軍をラインへ派遣する案まで出ていたが、その見返りとして要求したローマ教皇領返還をフランスが拒否した為、中立を宣言した。

また、ナポレオン3世はロシア帝国イギリス帝国との同盟を深めることにも失敗した。その一部はプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクの外交的努力の成果でもあった。結果的にフランスは単独でドイツ諸邦と戦うこととなった。

武器

フランス軍の後装式小銃であるシャスポー銃の射程は1,500メートルで、ドイツ軍の「針打式」のドライゼ銃の射程550メートルを遥かに上回っていた。また、フランス軍は機関銃式の兵器、ミトラィユーズも保有していた。ミトラィユーズは25本の銃身で射程約1,800メートルで射撃できた。しかしながら、ミトラィユーズは極秘に開発され、それを使用した訓練も全く実施されないほどであったため、フランス軍の銃手たちはミトラィユーズを戦闘で実戦的に使用した経験が全くなかった。そのため、ミトラィユーズは大砲の一種のように扱われたが、大砲の役割で使うにはミトラィユーズは有効ではなかった。フランス軍は青銅製でライフリングを施した前装式の大砲を装備していた一方、プロイセン軍は最新式の鋼鉄製で後装式の大砲を使用していた。後装式は前装式よりも遥かに射程が長く、またより速く発射する事ができた[66]


注釈

  1. ^ a b 同日は、1701年にプロイセン王国が成立した、プロイセン史及びドイツ史における重要な日付であった。後に、第一次世界大戦によるドイツ敗北後のパリ講和会議は、報復的に1919年の同日から開催されている。
  2. ^ マクシミリアンは、1867年6月19日に銃殺刑に処された。ベルギー王女である皇后シャルロットも発狂している。
  3. ^ 当時『ラインの守り』という愛国歌が、広く人気を博していた。
  4. ^ ギ・ド・モーパッサンの短編「二人の友」(Deux Amis 英語解説)によれば「屋根の雀もめっきり減り、下水の鼠もいなくなった。人々は食べられるものなら何でも食べた」(青柳瑞穂訳)という状態で魚釣りに行った二人の悲劇を描いている。
  5. ^ サルデーニャ王国(統一イタリア王国)の宰相カミッロ・カヴールのいとこであり、ヴィルヘルム1世の王妃アウグスタ・フォン・ザクセンなどの各国王侯貴族とその係累、後にフランス第三共和政の初代大統領となるアドルフ・ティエールなども知人であり、さらにはビスマルクとも旧知であった。

出典

  1. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508/ 2020年12月3日閲覧。 
  2. ^ 『詳説世界史』(山川出版社。2002年4月4日 文部科学省検定済。教科書番号:81山川 世B005)p 229
  3. ^ Ran Aharonson Rothschild and Early Jewish Colonization in Palestine Rowman & Littlefield Publishers 2000 p.53. 注1
  4. ^ Howard 1991, p. 40.
  5. ^ Howard 1991, p. 45.
  6. ^ von Bismarck 1898, p. 58.
  7. ^ a b Britannica: Franco-German War.
  8. ^ Howard, 1991 & 41.
  9. ^ Wawro 2003, pp. 28–30.
  10. ^ a b c d e 林 1967 p74
  11. ^ 林 1967 p74-75
  12. ^ a b c 林 1967 p75
  13. ^ 林 1967 p73
  14. ^ 林 1967 p73-74
  15. ^ a b c d 林 1967 p77
  16. ^ 林 1967 p77-78
  17. ^ Howard 1991, p. 78.
  18. ^ Wawro 2003, pp. 66–67.
  19. ^ Howard 1991, pp. 47, 48, 60.
  20. ^ Wawro 2003, pp. 85, 86, 90.
  21. ^ a b c 林 1967 p78
  22. ^ Wawro 2003, pp. 87, 90.
  23. ^ Wawro 2003, p. 94.
  24. ^ Howard 1991, p. 82.
  25. ^ Wawro 2003, p. 95.
  26. ^ Howard 1991, pp. 100–101.
  27. ^ Howard 1991, p. 101.
  28. ^ Wawro 2003, pp. 97, 98, 101.
  29. ^ Wawro 2003, pp. 101–103.
  30. ^ Howard 1961, pp. 101–103.
  31. ^ a b 林 1967 p79
  32. ^ Howard 1991, pp. 87–88.
  33. ^ 林 1967 p79-80
  34. ^ Howard 1991, pp. 89–90.
  35. ^ Howard 1991, pp. 92–93.
  36. ^ a b 林 1967 p80
  37. ^ Howard 1991, pp. 98–99.
  38. ^ Howard 1991, p. 116.
  39. ^ a b c d 林 1967 p81
  40. ^ a b c 林 1967 p83
  41. ^ 林 1967 p83-84
  42. ^ a b c d 林 1967 p84
  43. ^ 林 1967 p84-85
  44. ^ 1870年9月17日のIllustrated London News誌掲載の挿絵
  45. ^ Craig 1980, p. 31.
  46. ^ Ridley 1976, p. 602.
  47. ^ イリュストラシオン・ユーロピエンヌ 1870, N° 48, p. 381.J.フェラ
  48. ^ Richard Holmes, Falling Upwards: London: Collins, 2013, p. 260
  49. ^ No. 1132: The Siege of Paris”. www.uh.edu. 2016年3月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月7日閲覧。
  50. ^ Hope”. ウォルターズ美術館. 2013年8月2日閲覧。
  51. ^ Rustow & Needham 1872, p. 229–235.
  52. ^ Wawro 2003, pp. 190–192.
  53. ^ a b Wawro 2003, p. 192.
  54. ^ Maurice & Long 1900, pp. 587–588.
  55. ^ Rustow & Needham 1872, p. 243.
  56. ^ van Creveld 1977, p. 96.
  57. ^ Howard 1991, p. 23.
  58. ^ a b Irvine 1938, p. 192.
  59. ^ Howard 1991, pp. 23–24.
  60. ^ Holborn 1942, p. 159.
  61. ^ Howard 1991, pp. 19–20.
  62. ^ Howard 1991, p. 21.
  63. ^ McElwee 1974, p. 46.
  64. ^ Howard 1991, p. 68.
  65. ^ Howard 1991, pp. 70–71.
  66. ^ Howard 1991, pp. 35–36.
  67. ^ Taylor 1988, p. 133.
  68. ^ Varley 2008, pp. 152?202.
  69. ^ Bailey 2004, pp. 218–219.
  70. ^ a b Howard 1961, pp. 156–157.
  71. ^ Bailey 2004, p. 218.






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