侵攻
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侵攻と侵略の指す範囲の比較
侵略(しんりゃく、英: aggression)という用語については、1974年に国連が「国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対する武力の行使」または「国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」と定義した[5]。 つまり、侵略のほうは次のことを広く指している。
侵略と侵攻を比較すると、侵略のほうが広範囲のことを含んだ概念・用語である。大規模な侵略計画の第一段階として侵攻が行われる場合がある、という関係になっている。大規模な侵略では、他国の周辺部にまず侵攻した後、次にその首都まで攻め入り、ついにはその国の中央政府も崩壊し、その機能を乗っ取ってしまったり、従属国にしてしまう、というようなことが行われることがある。しばしば、そのような大規模な侵略の"第一段階"として侵攻が行われる。
- 用語の歴史
国家による他国への武力行使という意味での「侵略」aggression が使用されたのは第一次世界大戦の講和条約ヴェルサイユ条約(1919年)においてである。当時の日本国政府(大日本帝国)は aggression を「攻撃」と翻訳した[4]。
軍事学
侵攻は、ある国家・武装勢力が別の国家・武装勢力に対して攻撃を仕掛けて、その領土・勢力圏を侵す行為を指す軍事学上の用語である[要出典]。 侵攻は、自衛の対義語である国際法用語としての侵略(aggression)とは異なり、必ずしも相手方の主権や政治的独立を一方的に侵す目的とは限らない、価値中立的な概念である。戦争自体が自衛目的かどうかとは関わらないので、たとえ戦争全体が侵略戦争にあたる場合であっても、その中で行われる個別の軍事行動について敵国領土への攻撃かどうかによって判断して、侵攻と呼ぶこともできる。なお、「侵略」の語についても、純軍事学的観点から、侵攻と同義に用いることもある[要出典]。
侵攻の手段としては、陸海空の様々な手段が用いられる。
侵攻・侵入(invasion)は、征服(conquest)、占領(occupation)とも混用されることがある[3]。
なお侵攻された側が行う対応(抵抗)は広くは防衛と呼ばれている。
侵攻と呼ばれることがある事例
- モンゴルのポーランド侵攻 (1240年)
- モンゴルの樺太侵攻 (1264年)
- ドミニカ侵攻 (1761年)
- セイロン侵攻 (1795年)
- ポーランド侵攻 (1939年)
- ソ連によるフィンランド侵攻 (1939年)
- ナチス・ドイツのフランス侵攻 (1940年)
- ユーゴスラビア侵攻 (1941年)
〜第二次世界大戦以降〜
- グレナダ侵攻 (1983年)
- パナマ侵攻 (1989年)
- クウェート侵攻 (1990年)
- アメリカのアフガニスタン侵攻 (2001年)
- アメリカのイラク侵攻 (2003年)
- レバノン侵攻 (2006年)
- ガザ侵攻 (2014年)
- ロシアのクリミア侵攻 (2014年)
- ロシアのウクライナ侵攻 (2022年)
脚注
- ^ 精選版 日本国語大辞典、コトバンク
- ^ 「invasion」,Cambridge Advanced Learner's Dictionary, Cambridge Academic Content Dictionary, Cambridge University Press.
- ^ a b 宮崎繁樹「占領に關する一考察」『法律論叢』24(1-2)、明治大学法律研究所、1950年、116-132頁、NAID 120001439764。
- ^ a b * 「御署名原本・大正九年・条約第一号・同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書 (国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A03021294200 ,173頁
- ^ 侵略の定義に関する決議:United Nations General Assembly Resolution 3314 on the Definition of Aggression,“侵略の定義に関する決議” (html). ミネソタ大学人権図書館. 2022年3月7日閲覧。
関連項目
参考文献
- 宮崎繁樹「占領に關する一考察」『法律論叢』24(1-2)、明治大学法律研究所、1950年、116-132頁、 NAID 120001439764。
- 侵略の定義に関する決議:United Nations General Assembly Resolution 3314 on the Definition of Aggression,“侵略の定義に関する決議” (html). ミネソタ大学人権図書館. 2022年3月7日閲覧。
- タイトルに「侵攻」を含むページの一覧
進攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/11 17:59 UTC 版)
「カナージ・アングリア」の記事における「進攻」の解説
カナージはイギリスやポルトガルなどインド西岸近海に展開する列強海軍への攻勢を強めていった。1712年11月1日、カナージの麾下がイギリスボンベイ長官ウィリアム・エイズラビー(英語版)所有の武装ヨットAlgerine号を拿捕することに成功した。更にイギリスがカルワル(英語版)に有していた商館の責任者Thomas Chownを殺害、その妻を捕縛した。船と夫人が解放されたのは翌1713年の12月13日、身代金30,000ルピーが支払われるに至ってようやくのことであった。この時の解放交渉は直近に占領された地域の返還をも伴うものであり、カナージは東インド会社と協同して他勢力と戦わんと企図したものと考えられる。しかし彼は結局、バーラージー・ヴィシュヴァナートと手を組み東インド会社と戦い続けることを選んだ。[要出典]ゴア近海ではイギリスからボンベイへ航行中の船を拿捕し、東アフリカ人乗船員SomersとGranthamを捕虜としている。1712年には、ポルトガルインド艦隊(英語版)の30門戦艦を航行不能に追い込み拿捕した。 最終的に、カナージとイギリス東インド会社総督エイズラビーとの間で、今後東インド会社所有の船を襲わないという約定が結ばれた。エイズラビーはその後1715年8月頃に本国へ帰還した。 1715年12月26日、エイズラビーの後任としてチャールズ・ブーン(英語版)がボンベイの長官に就いた。ブーンはすぐさまカナージの捕縛を計画したが成果を挙げられず、1718年には逆にカナージによってイギリス船籍の船3隻を拿捕される被害を受け、彼を海賊と詰った。 1720年、イギリスは再びカナージ討伐の軍を起こした。しかしこの時浮き砲台の弾が暴発してヴィジャイドゥルグ砦(英語版)の岩壁を破壊したため砦を経由した上陸が不可能になり、イギリス艦隊はほどなくボンベイへの退却を余儀なくされた。 1721年11月29日、ポルトガル勢力(インド副王のFrancisco José de Sampaio e Castro)と協同したイギリス軍(司令官ロバート・コーワン(英語版))がカナージの討伐を試みたが、これも無惨な失敗に終わった。この時の連合艦隊は兵数6,000、当時最大級のヨーロッパ式軍艦が少なくとも4隻投入され、トマス・マシューズが指揮に当たっていた。カナージ側にはMendhaji Bhatkar以下マラーター(英語版)の艦隊が援護についていたため、ヨーロッパ船を襲撃・掠奪し続けることが出来た。戦後マシューズは本国に帰還し、オーストリア継承戦争の勃発で戦線復帰するまで軍務から外れることになった。1723年にはチャールズ・ブーンも本国へ帰還している。ブーンの離任後、カナージが1729年に没するまで、イギリス勢力とカナージらとの関係は比較的平穏に保たれることとなった。
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