Cao Renとは? わかりやすく解説

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曹仁Cao Ren

ソウジン

168223
大司馬・仮節・都督益州諸軍事・陳忠侯

字は子孝沛国譙の人。太祖曹操従弟にあたる。祖父を曹褒、父を曹熾といった。

曹仁は若いころから弓馬狩猟好み、のちに豪傑たちが一斉に立ち上がると、曹仁もまた密かに少年たち組んで千人余り手に入れ淮水泗水一帯駆けずまわった

太祖に従って別部司馬となり、厲鋒校尉行った太祖袁術撃破したときには、曹仁の斬首捕獲が大変多かった徐州征討従軍し、曹仁はいつも騎兵監督して先鋒務め別働隊として陶謙の将呂由を攻撃、これを打ち破った引き返して彭城にて本隊合流し陶謙軍を大破した。費・即丘開陽攻撃にも従軍し陶謙別働隊派遣してそれらを救援しようとしたので、曹仁は騎兵でもってこれを撃破した太祖呂布征討すると、曹仁は別働隊として句容を攻撃、これを陥落させて呂布の将劉何生け捕りにした。

集解』に従い即墨」を「即丘」と改める。

太祖黄巾賊平定して天子迎え入れ、許へ遷都させたとき、曹仁はたびたび武功立てて広陽太守任じられた。太祖彼の武勇軍略期待していたので任地へ行かせたくなく、議郎として騎兵監督させた。

太祖張繡征伐しときには、曹仁は別働隊として近隣諸県平定男女三千余り生け捕りにした。太祖軍勢引き揚げようとして張繡追撃を受け、合戦は不利、士気喪失したとき、曹仁が将兵率いつつ励ましはなはだ勇猛であったので、太祖はそれを壮快思った。こうして張繡打ち破ることができた。

太祖袁紹とが官渡にて長いあいだ対峙していたとき、袁紹劉備派遣して〓彊を攻略させると、近隣諸県多く挙兵してこれに呼応したため、許以南では官吏民衆不穏であった太祖憂慮していると曹仁が言った。「大軍目前急務追われている情勢により、南方では救援期待できないだろうと思っております劉備精兵率いて向かってくれば、彼らが叛逆するのも当然です。(しかし)劉備袁紹の兵を率いるのが初めてなので、まだ思い通りに扱うことができません。攻撃すれば撃破することができましょう。」太祖はその言葉喜び騎兵率いさせて劉備攻撃させ、彼らを潰走させた。曹仁は叛逆した諸県ことごとく回復してから帰還した

袁紹別働隊として韓荀西道遮断させると、曹仁は洛山にて韓荀攻撃し、これを大破したそれ以来袁紹はもう軍勢分けて出そうはしなくなった。(曹仁は)また史渙とともに袁紹輜重車襲い、その食糧焼き払った

河北平定されたのち、壺関包囲従軍した太祖は「城が陥落した一人残らず生き埋めにせよ」と命じてあったが、月をまたいで陥落させられなかった。曹仁は太祖言上した。「城を包囲するときに必ず抜け道見せておくのは、彼らの生きる道開いてやるためです。いま公は必殺予告しておられますので、彼らは自分意志守備に就き、しかも城郭堅固食糧多く、これを攻撃して士卒傷付くだけ、包囲固めて日にちがかかるだけです。いま堅城の下で軍勢をつまづかせ、必死の敵を攻めるのは良計ではございませぬ。」太祖がそれを聞き入れると、城は降服した。これにより、曹仁は前後功績評価されて都亭侯に封ぜられた。

荊州平定従軍したあと、(太祖は)曹仁に征南将軍を行わせて江陵残し呉将周瑜を防がせた。周瑜数万軍勢率いて来襲し、先鋒数千人が最初に着陣した。曹仁は城郭に登ってそれを眺めると、三百人を募集し部曲牛金迎撃出して戦わせた。賊兵多く牛金軍勢少なく、すっかり包囲されてしまった。長史陳矯は曹仁と一緒に城郭の上にいて、牛金らが今にも殺されそうになっているのを見て左右の者はみな顔色失った。曹仁の気迫憤怒激しく左右の者に「馬を引けい」と命じた

陳矯らが一斉に彼を押しとどめて賊軍多勢対抗できませぬ。数百人を棄てたとて何の苦になりましょうや。それを将軍おんみずからお出ましとは!」と言った。曹仁は答えず甲冑身を固めて馬に跨り、麾下勇者数十騎を連れて城外討って出た賊軍の手百歩余り塹壕まで行ったとき、陳矯らは曹仁が塹壕傍らに留まって牛金支援の構えを取るものと思っていたところ、曹仁はそのまま塹壕越えてまっすぐ賊軍包囲陣へ突き入った

牛金らはようよう抜け出したが、残り連中がまだ抜け切れていなかったので、曹仁はすぐさま引き返して突入し牛金の手勢を救い出した配下数人失っただけで、賊軍はとうとう撤退した陳矯らは曹仁が城を出たとき、みな恐怖したが、曹仁が帰ってくるのを見ると「将軍まことの天人でございます!」とため息吐いた三軍はその勇敢さ心服した。太祖はますます壮快思い安平亭侯に転封してやった

太祖馬超討伐したとき、曹仁に安西将軍を行わせ、諸将監督して潼関守りつつ、渭水南岸馬超撃破した伯・田銀が反乱すると、曹仁に驍騎将軍を行わせ、七軍を都督させて田銀らを討伐させ、これを打ち破った。また曹仁に征南将軍を行わせて節を仮し、樊城屯して荊州鎮めさせた。侯音宛城こぞって叛逆し、近隣諸県攻略し数千人を集めると、曹仁は諸軍率いて侯音攻め破り、その首を斬って樊城帰還した即日、征南将軍拝命した。

関羽樊城攻撃をかけてきたとき、漢水氾濫して于禁らの七軍が水没してしまい、于禁関羽投降した。曹仁は人馬数千人で城を守っていたが、城は数板を残してすっかり水没していた。関羽が船に乗って城外現れ幾重にも包囲したため内外(の連絡)は断絶し食糧も底を突きそうだった援軍到着しなかった。曹仁が将兵激励して決死覚悟を示すと、将兵感銘受けてみな二心捨てた徐晃救援到着し、また水位も少しづつ減ってきた。徐晃城外から関羽攻撃したので、曹仁は包囲陣をもみ潰しながら城外へ出ることができた。関羽退却した

曹仁は若いころ行儀悪かったが、成長して将軍になってからは、厳正粛々と法令守り、いつも左右に控えた法律書検討しながら職務あたった鄢陵曹彰烏丸北征に出るとき、文帝曹丕)は東宮から曹彰手紙送って将軍として法令を守るには、征南ほどでなければならぬ!」と戒めた。(文帝は)王に即位すると、曹仁を車騎将軍都督・揚・益州諸軍事に任じ封爵を陳侯に進め二千戸を加増して都合三千五百戸とした。曹仁の父曹熾に諡して陳穆侯とし、墓守十戸を与えた曹仁は群臣諸将とともに帝位上るよう曹丕勧めた《隷釈》。

のちに召し返され宛城屯した。孫権が将陳邵に命じて襄陽占拠させたとき、詔勅によって曹仁がこれを討伐した。曹仁は徐晃とともに陳邵を攻め破りそのまま襄陽入城し将軍高遷らに命じて漢水南岸従順な民衆北岸移住させた。文帝使者派遣して曹仁をその場大将軍任じ、さらに詔勅下して曹仁を臨潁移駐させた。大司馬昇進させ、また諸軍監督させて烏江押さえさせた。(のちに)召し返して合肥に屯させた。

黄初四年(二二三)に薨去、諡を忠侯という。

参照于禁 / 袁術 / 袁紹 / 関羽 / 韓猛韓荀) / 牛金 / 侯音 / 高遷 / 史渙 / 周瑜 / 徐晃 / 伯 / 曹熾 / 曹彰 / 曹操 / 曹丕 / 曹褒 / 孫権 / 張繡 / 陳矯 / 陳邵 / 田銀 / 陶謙 / 馬超 / 劉何 / 劉協天子) / 劉備 / 呂布 / 呂由 / 安平亭 / 渭水 / 〓強侯国(〓彊侯国) / 烏江 / 益州 / 宛県 / 鄢陵県 / 華県 / 開陽県 / 合肥侯国 / 河北 / 漢水 / 官渡 / 許県 / 荊州 / 洛山 / 呉 / 広陽郡 / 句容県 / 江陵県 / 壺関県 / 泗水 / 譙県 / 襄陽県 / 徐州 / 即丘侯国 / 陳県 / 潼関 / 沛国 / 樊城 / 費侯国 / 彭城国 / 揚州 / 臨潁県 / 淮水 / 安西将軍 / 王 / 仮節 / 驍騎将軍 / 議郎 / 侯 / 車騎将軍 / 征南将軍 / 大司馬 / 太守 / 大将軍 / 忠侯 / 長史 / 亭侯 / 都亭侯 / 都督 / 別部司馬 / 穆侯 / 厲鋒校尉 / 烏丸 / 諡 / 行 / 黄巾賊 / 部曲




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