203高地攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 01:00 UTC 版)
27日午後6時、28センチ榴弾砲の事前射撃により203高地の中腹散兵壕を破壊、午後6時20分、第1師団右翼隊(後備歩兵第1旅団)、中央隊(歩兵第1旅団)が突撃を開始した。敵砲台は攻城砲兵及び師団砲兵が制圧し、右翼隊は鉄条網を排除しつつ前進し、一部は203高地西南部、敵の第2線散兵壕の左翼を奪取した。更に前進を続けるも周囲からの敵の大口径砲の援護砲撃で損害を被る。 中央隊は老虎溝山に突撃を開始、山頂散兵壕の一部を奪うが夜になって敵の逆襲により撤退した。 翌28日、第1師団は再び攻撃を開始した。右翼隊は後備歩兵第38連隊の増援を受け8時頃突撃を開始、第2線散兵壕を奪うが死傷者が続出し現在地の確保で精一杯になる。友安旅団長は後備歩兵第16連隊を増援に回し、10時30分に山頂へ突撃し頂上を制圧した。しかし直ぐ様ロシア軍の逆襲にあい山頂を奪還される。それでも左翼隊は粘り強く攻撃を続け、正午頃には西部山頂の1部を奪回し敵の逆襲に備えた。 一方の中央隊は203高地東北部に対する攻撃を意図し攻撃準備をしていたが、その間敵の攻撃を受けて歩兵第1連隊長の寺田錫類大佐が重傷を負い、まもなく戦死する。それでも旅団長馬場命英少将自ら指揮を取り突撃を繰り返すも効果なく、一時は東北部山頂を占領するも、敵に奪還された。 11月29日午前2時、第1師団より現在の師団兵力では203高地攻略は難しい旨の連絡が軍司令部に届く、これを受けて乃木は予備の第7師団の投入を決意、午前3時に麾下の各部隊と満州軍総司令部、大本営にその旨を連絡した。この直後、満州軍より児玉総参謀長が旅順に赴く旨の連絡が入る。 午前7時、第7師団長大迫尚敏中将が高崎山の第1師団司令部に到着し、203高地攻撃の指揮権を継承した。大迫は第7師団と第1師団の残存兵力で攻撃部署を決める。 203高地攻撃:友安治延(後備歩兵第1旅団長)少将指揮歩兵第1連隊1.3大隊、歩兵第26連隊2大隊、歩兵第28連隊、後備歩兵第15連隊1.3大隊、後備歩兵第16連隊、後備歩兵第38連隊2大隊、工兵1個中隊 老虎溝山攻撃隊:吉田清一(第7師団歩兵第13旅団長)少将指揮歩兵第1連隊2大隊、歩兵第15連隊2大隊、歩兵第25連隊3大隊、歩兵第26連隊、工兵1個大隊半 砲兵隊:兵頭雅誉(野戦砲兵第1連隊長)大佐指揮野戦砲兵第1連隊、野戦砲兵第7連隊、野戦重砲兵第1連隊1大隊 30日午前6時、攻城砲兵は砲撃を開始、まず歩兵第28連隊が山頂東北部に突入。第三攻撃陣地まで前進するが敵の猛射で釘付けにされる。西南山頂は後備歩兵第15.16連隊が向かうがこれも側射を受けて損害を被り攻撃を断念する。 老虎溝山攻撃は午前10時より開始され、午後1時まで幾度となく波状攻撃を繰り返すが悉く撃退される。 午後4時50分、第1師団長より攻撃再開の命が下る。6時40分に東北部山頂に突入し、接戦のすえ一部占領に成功。その後一進一退の攻防で占領地の一角を死守することに成功した。午後5時には203高地の完全占領の報が届き、大本営や満州軍に伝わるが誤報で、翌12月1日午前2時には敵に奪還される。 夜半、友安少将は増援の二個中隊を率いて前線に向かう旨、各部隊に伝令を出すが、その任務を帯びていた副官の乃木保典少尉(乃木希典大将の次男)は銃弾を受けて戦死する。 12月1日、死傷者の収容と態勢を整えるため、4日まで攻撃を延期する。正午、満州軍司令部から旅順へ向かった児玉満州軍総参謀長が到着。その途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知った児玉は大山満州軍総司令官に電報を打ち、北方戦線へ移動中の第8師団の歩兵第17連隊を南下させるように要請した。 12月1日から3日間を攻撃準備に充て、第3軍は攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行った。 12月4日早朝から203高地に攻撃を開始し、5日9時過ぎより、第7師団歩兵27連隊が死守していた西南部の一角を拠点に第7師団残余と第1師団の一部で構成された攻撃隊が西南保塁全域を攻撃し10時過ぎには制圧した。 12月5日13時45分頃より態勢を整え東北堡塁へ攻撃を開始し、22時にはロシア軍は撤退し203高地を完全に占領した。翌6日に乃木は徒歩で203高地に登り将兵を労うが、攻撃隊は900名程に激減していた。 12月5日の203高地陥落後、同地に設けられた観測所を利用し日本側は湾内の旅順艦隊残余に砲撃を開始する。各艦の大多数はそれまでの海戦や観測射撃で破壊され、要塞攻防戦の補充のため乗員、搭載火砲も陸揚げし戦力を失っていたが、日本側はこれらに対しても28センチ榴弾砲砲弾を送り込み、旅順艦隊艦艇は次々と被弾した。砲弾は戦艦の艦底を貫けなかったが、多くの艦艇は自沈処理がなされた。5日に戦艦ポルターヴァが後部弾火薬庫が誘爆着底、翌日には戦艦レトヴィザンも着底し、8日にペレスヴェート、ポベーダの両戦艦も防護巡洋艦パラーダと共に着底した。9日には装甲巡洋艦バヤーンが同様の運命をたどった。大型艦で生き残ったのはセヴァストーポリのみとなり、8日の深夜に港外に脱出した。 この攻撃での損害は日本軍は戦死5,052名、負傷11,884名。ロシア軍も戦死5,380名、負傷者は12,000名近くに達した。両軍がこの攻防に兵力を注ぎ込み大きく消耗した。203高地からはロシア太平洋艦隊のほぼ全滅が確認され、児玉は12月7日に満州軍司令部へ戻った。 脱出して旅順港外にいた戦艦セヴァストポリと随伴艦艇に対しては、日本海軍は30隻の水雷艇で攻撃し、12月15日の深夜の攻撃で同艦は着底し、航行不能となった。
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