1985年の橋
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旧橋は埼玉県で唯一の県管理の吊り橋であったが、戦後の物資難の中の架設もあってか、著しいメインケーブルの劣化のため2トンの重量制限を実施していた。そして架橋から40年近く経過して橋が老朽化し、維持管理がかさみ地元で架け替えの要望がある事と、片側交互通行ということもあって車両の大型化や増加する交通量に対応できず、時代にそぐわなくなったことから埼玉県(熊谷工事事務所)が事業主体となり、1981年(昭和56年)予算化されて今までの橋のすぐ上流側の位置に総事業費8億7300万円を投じて現在の橋である新寄居橋の架け替え事業に着手した。橋種の選定に当たっては周囲は埼玉県立長瀞玉淀自然公園であるため、観光への利用も考慮するとともに周囲の地形や景観の調和にも配慮され、埼玉県では秩父市の巴川橋に次いで2例目となるニールゼンローゼ橋が採用された。橋の塗色も同様の配慮がなされ、シルバー系の色となった。橋の施工会社は松尾橋梁。架設工法はケーブルクレーンによる斜吊り工法(ケーブルエレクション斜吊り工法)が用いられた。1985年(昭和60年)に橋は完成されて旧橋より付け替えられ、1986年(昭和61年)4月に橋の供用を開始した。橋長109メートルで、アーチリブの高さは18.0メートルである。また、橋の架設に合わせて取り付け道路がすぐ上流側に整備し直されたが、左岸側の用地の買収の遅れから暫定開通の措置が取られた。1986年(昭和61年)8月19日、新寄居橋は全面開通し、開通式が寄居町長ら関係者が出席する中挙行された。現在はこの新寄居橋を寄居橋と呼ぶ。
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1985年の橋
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旧橋の老朽化のほか、通行車両の大型化で橋上のすれ違いが困難となり、増大する交通量に対処するため、全国で25例目の、埼玉県では初の斜張橋で橋が架け替えられることとなった。橋の設計は五十畑弘が担当した。橋の建設に先立ち風洞試験が実施され、フェアリングやフラップの設置などの空力的対策を検討したが、橋が流心に対しほぼ45度の斜橋であることもあってその対策を特に取らずに基本断面のまま架橋し、様子を見ることとなった。橋は1980年(昭和55年)着工、橋は主塔が鉄骨鉄筋コンクリート、橋桁が鋼製の日本初の複合斜張橋が採用された。施工会社は日本鋼管(現、JFEエンジニアリング)および斎藤組で架設工法としてケーブルクレーンによる片持ち式工法により架設され、1985年(昭和60年)9月に新秩父橋が竣工した。折しも初代秩父橋竣工後100年目の年であった。総事業費は12億900万円であった。構造上水平反力が生ずるので、橋台の伸縮装置に水平沓や可動沓が設置されている。また、右岸側70メートル、左岸側10メートルの取り付け道路も合わせて整備された。竣工後は9月から翌年2月までの6カ月間、橋桁に起振機を設置して振動試験が実施されたほか、風による振動計測(対風挙動観測)が行なわれた。現在はこの新秩父橋を秩父橋と呼ぶ。橋の開通式は1985年(昭和60年)12月21日の午前11時より右岸側橋詰にて挙行され、立岡副知事や加藤市長のほか多くの来賓が出席され、式典の後に秩父消防音楽隊を先頭に九組の三代夫婦による渡り初めが行なわれた。橋は同日14時より供用を開始した。 1985年度に、本橋は橋の技術的特徴やコンピュータを活用した施工マネジメントなどが評価され、土木学会田中賞(作品賞)を受賞している。田中賞の受賞理由が記された秩父橋「田中賞」受賞記念碑が橋詰の「秩父橋ポケットパーク」に設立されている。この橋の開通により、今までの橋は取り付け道路が橋の前後で地形に沿ってクランク状に急カーブしていたが、緩やかなカーブの線形に改修され交通の流れが良くなった。 橋の開通後「秩父橋竣功記念実行委員会」が結成され、記念事業の一環として畑知事の揮毫による新秩父橋の記念碑(秩父橋竣工記念碑)が「秩父橋ポケットパーク」に設置され、1986年(昭和61年)4月19日昼前にその除幕式が催された。記念碑には表面は橋の由来、裏面には工事の概要や経過が記されている。また、記念碑のほかに四阿やベンチやわき水の彫刻、初代秩父橋の親柱なども設置された。
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